第5話
東京・霞が関。農林水産省の省議室には、午前の光が射し込んでいたが、その空気は陰鬱に沈んでいた。
農林水産大臣としての誇りと責任感を胸に、彼は三週間前に備蓄米の放出を決断した。それはあのとき、ただちに必要な措置だった。しかし今、政治家や官僚たちの冷ややかな視線が、会議室の温度をさらに下げていた。
「大臣、備蓄米の放出が長引けば、農政への悪影響も無視できません」
乾いた声で、農政局長の中垣元太朗が発言する。年齢は五十代半ば、典型的な官僚で、政治家に媚びず、しかし無視もせず、常に制度と前例の内側で物事を捉える男だった。
「中垣さん、影響は承知している。しかし、現場では市民が今日食べる米に困っている。備蓄の意味は、こういうときに出すためじゃないのか?」
「はい、大臣。それは確かに、しかし……」
中垣は言葉を濁した。そこに続くべき言葉は、口に出せば明確な“抵抗”になるからだ。
その日の夜、瀬川は都内の私邸に戻ったが、疲労は背広を脱いでも抜けなかった。ネクタイを緩めてソファに沈むと、妻・弓子が湯のみを差し出してくれた。
「また、何かあったの?」
「毎日が“何か”さ……」
瀬川は苦笑しながら、湯のみを受け取った。
ふと、電話が鳴る。見ると非通知。普段なら出ないが、何かが胸騒ぎを呼んだ。受話器を取ると、若い男の声がした。
「大臣、あなたの決断に、多くの敵が動いています。気をつけてください。特に、官邸からのラインを信用してはいけない」
「君は誰だ?」
返事はなかった。ツー、ツー……無音だけが残る。
瀬川は眉をひそめた。いたずらではない。背筋に冷たいものが走った。
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