第4話
「……では手筈通り……神殿を出てから襲撃することに決まったのだな」
「そうだ。神殿を出ると一行はそのまま王都へハウリースの街を抜けるため北側の門から出る段取りになっている。ここでは民衆が大勢参列しているから、三十名を三方に分けて配置しておく」
「警備に出て来るのは騎士団だが……」
「神殿のこの上階部に弓兵を潜ませておく。混乱に乗じて一気に護衛は倒す。地上部隊ではそこまでの余裕は出来ん。首を取るのが精一杯だろう。神兵の中からも指折りの弓兵を選んだ。心配ない」
「しかしやはり……神殿内で襲撃した方が確実なのではないか?」
「神殿内で王族は殺せん。国教が汚名を着ることになる」
「ここまで決めたんだ! 謀反を今更恐れる必要は無い! 猊下の嘆きを忘れたのか? そもそも王脈の腐敗がどこから始まったのかを思い出せ。神殿だけが聖域でいられるなどということは幻想に過ぎない!」
男達は声を荒げ激しく言い争っている。
「止さぬか! 私達が争って何になる。敵の強大さを思えば我々が一つにまとまらずして何を成せようか⁉」
「……どんなに取り繕ってみせても大逆は大逆。我々は首を刎ねられるだろう。だが忘れてはならぬ。あの方がこの目の前の地に膝をつき――サンゴールの末なる未来、民達の平穏……自分に成り代わって守ってほしいと涙を流して我々の手を取って下さったことを。我々はサンゴール王家の行く末にいつも危惧を覚えていたはずだ。この期に及んで自分の命を優先するような者はこの場で死んだ方が良い!」
「神殿の名誉は。――守られるのだろうな」
「必ず竜の神が守って下さる。」
「これはあの方が下さった封魔の剣だ。大神殿に封じられていた宝物になるが、神殿の大いなる意志が共に在る証に、あの方が我々に委ねて下さった。神官達の魔法で幾重にも強化されている。……とはいえ相手が相手なだけに、これですらどれだけ効くかは分からぬが……。だが咄嗟の一撃くらいは確実に止められる。必ずそこで仕留めるのだ」
「失敗は許されんぞ」
「この命に替えても、取ってみせます!」
「よし……」
扉越しにも彼らの重苦しい空気が伝わって来る。
(首を取る……? この者達は一体……)
メリクは耳を傾けながらも話の内容を頭の中で整理していた。
(神殿……国教の神官のようだけど)
メリクも全く知らない所という場所ではないが、どの声にも聞き覚えは無かった。
いや、それよりも問題は話の内容である。
サンゴール国教大神殿の神官達が人殺しの作戦を練っているのだ。これは見過ごせないことだった。神殿とは本来そういったこととは最も縁遠くなければならないのだから。
それに。
(何と言った? ……王族殺し?)
「今回の神儀がラウシュの神殿で行われるのも天の思し召しである。ラウシュを治めるバーメンツ伯はサンゴールの未来を心から案じ、メルドラン王の治世に王にそのことを進言された。だが王はそれに心無い仕打ちで報い、伯は任官を解かれラウシュに引き上げるしか無かった。
だが今時代は、王に妾妃を勧めたバーメンツ伯の行動は正しかったと示しているのだ」
「光の王は早くに失われ、第二王子は猜疑心と暴力性を抱え込むご気性、王宮には正しき秩序がもたらされてはいない!」
「正しい王脈はすでに失われているのだ。サンゴールの滅亡は未来のことではなく、今まさにこの瞬間に訪れている現実のことなのだ」
「サンゴール国教大神殿は王家の守護者、罪人と例え罵られてもその誇りは失ってはならぬ」
「我々の手で正しき伝統と歴史を守り抜こう!」
「バーメンツ伯ならば必ず我らの想いを理解して下さるだろう……すぐに書状を送り、協力を仰ごう。いかがか」
「賛同する」
「私もだ」
メリクは眉を顰める。
仔細はまだ把握しきれなかったが、ただ一つ確かなことはここに集っている者達が糾弾しているのはサンゴール王家ということである。
これは由々しきことだった。
サンゴール国教大神殿は王家の守護的役目を本来担っているのだから。
サンゴール騎士団は団長の権限が非常に強いため王宮に対して一種の独立性を保っているのだが、サンゴール大神殿は歴史と神儀を重んじるサンゴールにおいて王家と密接に関わっている。
「一切の迷いを断ち、王殺しの汚名を着よう」
「歴史を正しき流れに導く為に」
翡翠の瞳が大きく見開かれる。
――――王殺し。
どくん、と心臓が大きく鳴ってそれはそのまま猛然と激しくなっていった。
自分が今どんな場に立ち会っているのか……メリクの思考回路は一気にそこまでを考えて、今夜自分がここへ至った数奇な運命をいつものように呪ったのだった。
(どうして僕が)
サンゴール王家などとは無関係なのに。
昔からいつも言われて来たこと。
いつか女王が正式に養子にして、王家に入るのではないかという話である。
王子継承のサンゴールにおいて男の王族は特別な意味を持つ。
だがメリクからしてみれば、王家の血とはそんな人の手で取ったりつけたり出来ないものだということは、もうよく分かりきった当然の話なのだ。
王家の血とは望んで得られる類いのものではない。
……同時に捨てることも出来ないのだから。
【
あれほどの魔術師でありながら、サンゴール王家の血は。
【竜の血】は彼の制御の殻をいとも簡単に破りその身を傷つけ続けている。
それでも決して自分では捨てられないものなのだ。
業である。それで命を縮めようとも、受け入れるしか無いもの。
【光の王】と呼ばれるグインエル王ですら竜の血が早世を導いたのだから。
(僕は関わりないのに。関わろうとも思っていないのに)
いつも運命は自分をサンゴールという国の岐路に関わらせようとする。
――今日この日、この時。
一度も来たことも無い土地に。
しかも来ようと思って来たわけではなく雷雨に追い立てられるようにやって来た。
その見知らぬ土地のこんな神殿地下へ、足を向ける可能性がどれだけあるだろう?
(信じられない……)
せめて耳に入ったのが投げ捨てられる程度の話題なら良かった。
だがこれはその類いではない。単なる陰口や批判ではなく――王の暗殺計画なのだ。
メリクにとってアミアカルバは命の恩人に等しい女性だった。
だから彼女に危機が及ぶなら彼女を守らなければならない。
ミルグレンから母親まで奪わせるようなこともさせてならないのだった。
メリクはもう一度この場で聞いた事を思い浮かべた。
何一つ間違いがあってはならない。
ラウシュの神殿神儀の際。
国務に関わる宮廷魔術師にも今やなっているメリクの耳にも入っていないが、サンゴール王都近隣にある神殿を王が訪問する公務は数多く存在する。恐らくその一つの機会を狙ったのだ。
大神殿の内部に裏切り者がいる。
もう少し詳しい情報を聞く為に意識を集中する。
そもそもこの命令を出したのが何者であるのかも知りたかった。そこを突き止めてこそ計画全てを阻害することが出来るのだから。
「他国の魔術師を呼ぶことだけは避けたかったのだが……」
「我々神官の封魔術では太刀打ち出来ぬ。宮廷魔術師団は完全に第二王子の支配下に入っている為、切り崩しも出来ぬ。仕方のないことだ」
「すでに私の手勢はラウシュに入らせた。当日まで私も潜り込み最終準備を進める」
「時間はあまりないぞ。皆万全を尽くしてくれ」
「ミルグレン王女は、神殿が必ず庇護して下さるのですね」
「ここに証文がある。誓いは必ず守られる」
「サンゴール史上でも女王の存在が全くなかったというわけではない。前例があるならば心配はいらぬ。王女は【光の王】の真の姫である。民も支持しよう」
メリクは僅かに眉間に皺を寄せた。
(……ミルグレンを擁護する?)
――それは、ひどく妙な言葉だった。
アミアカルバを殺して何故、ミルグレンを擁護するのだろう。
メリクは誰にも言ったことは無かったが、アミアがいつか玉座をミルグレンに譲位するつもりなのではないかと思うことがあった。
もちろんアミア自身は一度もそんなことを口にしてはいないし素振りも見せていない。 だがメリクはそう感じるのだ。
そうなった方がサンゴールにとって一番いいのではないかと、彼自身がそう思っているからかもしれない。
ミルグレンは母親とリュティスの庇護を受けて女王になる。
……それはその頃のメリクが思い描いていたサンゴールの未来の姿だった。
だから神殿がアミアに反意を示すなら、彼はきっと神殿が帝王学を学んでいないミルグレンが王位につくことを警戒する以外に無いと思い込んだのである。
しかしここで聞いた限り、実際にはそうではなかった。
アミアに対して反逆の体制を取るというのなら、ミルグレンを庇護するという意味が通らなくなる。
それにアミアは、大神殿がここまで過激な決定に走るまで野放しにするような王ではなかった。彼女は独裁者ではないのである。臣下の意見を聞く機会をちゃんと持つ王だった。 ……何より母だった。後に明らかなしこりが残るほどのことだと承知で、ミルグレンを王位に安易に座らせるような人ではない。
不思議なほどの神殿の強固な姿勢。
それにただならぬ『怯え』を感じ取り……メリクはそれからハッと気づいた。
元々この国の人間ではないメリクから見れば、異常とも思える恐怖をサンゴールの人間が向ける対象は、いつだって一人だ。
――――第二王子リュティスである。
自分の魔力と外界とを、瞳を通して媒介する【魔眼】を持つ者。
極論で言えば、目を合わせただけで相手の命を奪うことも出来るその力を、サンゴールの人間達はいつも恐れ怯えていた。
それに気づいた時メリクは全てを理解していた。謎が解けるように全てがパッと繋がったのである。
アミアカルバを襲撃するのに魔術師を増員する必要も封魔術を用いる必要も無い。
何故なら彼女は魔力をほとんど持っていないのだから。
この者達の標的は、第二王子なのだ。
だが同時に分からないことが増えた。
何故リュティスが『王家の血を汚す者』なのだろう。
彼は間違いなくメルドラン王の血を引く王子だ。
そして【光の王】と謳われたグインエルの実弟である。
【魔眼】はその高貴なる血の証と言っても過言ではない。
あれはリュティスが突然変異として得たものではなく、間違いなくサンゴール王族の遺伝として継承したものなのだから。
つまりグインエル王亡き今リュティスは唯一サンゴール本流の血を持つ者なのである。
ミルグレンにはアリステア王家の血筋も混じっているのだから。
王家の純血はそれこそ大神殿が行き過ぎなほどに、常々主張の前面に押し出して来るものだったはず。
そのサンゴール王家の守護者たる大神殿が、何故リュティスの命を狙うのかが分からない。
分からなかったが……そういえば、妙だと思うことはすでに起こっていた。
メリクはついこの前、彼が大神殿から女王アミアカルバの名代として神官の任命式を執り行ってくれと言われた時のことを思い出していた。
それまでどちらかというとメリクは大神殿には睨まれていたのである。
女王が養い子などと……、といつも苦言を言われていた。
だがあの出来事はしばらくの間にその 大神殿の態度が豹変していたことを示していた。
あれをメリクは自分が宮廷魔術師になったから少しばかり彼らの態度が緩和したのだろう程度にしか思っていなかったが、そんな単純なことではなかったのである。
腕を押さえて踞るリュティスの姿。
全部、全部思い出した。
何故そうなったのか分からないが、確かに感じた大神殿と第二王子の不穏。
(リュティス様……!)
メリクは声を漏らさぬよう口元を手で押さえて目を閉じた。
知らせなければならない。
一刻も早くだ。
リュティスの身が危ないのだ。
(落ち着け……、僕が行かなくちゃ)
音を立てないようにゆっくりと立ち上がり、注意深く階段を後ろに上がろうとした時だった。
足音。
下りて来る。
メリクの心臓がまた飛び上がった。
手勢がまだいたのである。
隠れようも無い狭い一本の螺旋階段。逃げ場は無い。
メリクは咄嗟に腰に下げていた杖を左手で握りしめていた。
とにかく、どんなことをしても逃げるしか無い。
やるべきことは逃げて城に戻りこの真相を明らかにすることだ。
今となっては外の雷雨が晴れていないことを祈るだけだ。
闇と雨に紛れてなら逃げ切れるかもしれない。
(……逃げる?)
メリクは唇を引き締めた。
(何故僕が怯えて逃げなきゃいけないんだろう)
神と王に遣える身の神職でありながら、この闇夜にまるで夜盗のように反逆を企てているのは相手の方なのだ。
自分は何も悪いことをしていないということに青年は冷静になって気づく。
真実を暴くのだ。
リュティスを守る為に。
杖を握る手に力が戻って来る。
(怯えるな、……必ず僕がこのことを知らせなくちゃいけないんだ!)
下りて来る足音はどんどん近づいて来る。
メリクは身を屈めて螺旋階段の柱の陰に立った。
気配を探る。どうやら下りて来るのは二人だった。
灯りが壁伝いに差し込んで来る。
メリクは的確に、横に倒した杖でこちらに下りて来た人間の足首のあたりを、引っ掛けそのまま足を掬い上げた。
「うあっ⁉」
驚きに声を上げ男は階段から足を踏み外して、ゴロゴロと転がりながら下まで落ちていく。
「お、おい?」
後ろからついて来たもう一人は襲われたとは全く考えなかったらしく、単に足を踏み外したと思ったようである。
驚いて下へ走って行こうとしたもう一人の足も杖で器用に掬い上げ階段から落とすと、メリクは脇をすり抜けて階段を一気に駆け上がり始める。
「⁉ なんだ⁉」
「っ……侵入者だ! 追え!」
激しい物音に扉が開く。
下が騒然としてすぐに追って来る足音が加わった。
メリクは立ち止まる事無く地下路を駆け上がると地下階段から抜け出した。
まだ中央に雨がザアザアと降り注いでいる。
裏手に置いて来た馬がまだいてくれればいいがと思い急いで穴から外に出る。
馬はいたが、雷雨にすっかり怯えていくら手綱を握っても進もうとしない。
「いたぞ! 逃がすな!」
「話を聞かれたぞ、絶対に捕らえろッ!」
男達が追って来る。
メリクは馬を捨てて身を翻し森の中に飛び込んだ。
ザザザザザ……ッッ
「はぁ……、はぁ……っ」
ぬかるんだ道を必死に駆ける。
彼の足は決して遅くはないが、自分の足跡がくっきりと泥の中に残っていることに気づいてメリクは顔を歪める。これでは逃げ切ることは出来ない。
(どうしたら……)
馬の嘶き。
「こっちだ! 急げ!」
「足跡を追え!」
「くっ!」
長い枝木が顔にぶつかる。
それを手で振り払いながらメリクは走り続けた。
しかしやがて前方に馬が見えた。
先に回り込まれたのだ。
道を塞がれたのを察し、メリクは大きな樹の幹に背をつけて身を隠す。
「出て来い! 逃げ切れんぞ!」
「……っ、」
乱れた呼吸を整える。
「いたぞ! こっちだ!」
四人、男達が駆けて来て直ぐさまメリクの周囲を取り囲んだ。
メリクは声を上げる。
「近寄らないで! 僕は魔法を使えます!
それ以上近づいたら貴方たちを傷つけることになる!」
近づいて来た男達は一瞬足を止めて顔を見合わせた。
相手の得体が知れなかったため彼らも必死だったようだが、理性的な言葉を聞いて少し落ち着いたらしい。
「……一人か……?」
「僕一人です。……近づかないで!」
距離を詰めようとした男を警戒し、メリクは杖を構えてもう一度叫んだ。
それを見て馬に乗っていた一人が手を上げて他の四人を止める。
「本当に一人のようだ。止まれ」
「何者だ? ……王宮に関わる者か……?」
メリクがあまりに若かったので、魔術師と聞いても宮廷魔術師団とは結びつかなかったらしい。顔の方は、元々城の公式の行事にほとんど出ていないメリクは人にはあまり知られていない。
宮廷魔術師団としては彼らの方針と立場というものがある。
自分はまだ入りたての新米だし、国の事情もよく知らない。
メリクはここで自分が宮廷魔術師団であることは言わない方がいいと咄嗟に思った。
それに何より、こちらが追求される謂れはない。
「貴方たちこそ何者です。第二王子殿下の暗殺を企てていた!」
「……。」
「国教神殿の者ということは分かっています!」
「……そこまで聞かれたからにはお前をこのまま帰すわけにはいかなくなった。ことが済むまでは我々の監視下に入ってもらうぞ」
「これでも我らは神職だ。命まで悪戯に奪うつもりはない。全てが済んだら自由にしてやろう。これは約束する」
「勝手なことだ……こんなことを企てておいて……」
「黙れッ! 何も知らない子供が!」
「我々はこの国の為にあの第二王子を討たねばならないのだ!」
(何も知らないのは……)
お前達の方だ、とメリクは男達を見据えた。
腹の底から怒りが湧き上がって来る。
怒りは恐怖を覆い隠していった。
手の震えが止まる。
変に心臓が落ち着いていた。
「――サンゴール王家への反意――聞き届けたぞ」
ザアァァ……
また雨が強くなって来た。
すぐに止むと思っていたのに、予想以上に長い雨夜になりそうだった。
『国の為に第二王子を討たねばならない』?
筋の通らない話だった。
メリクはあくまで真実を求める。
「何故あの方を狙う!
あの方は国を想いこそすれ国に害をもたらしたことなどないはずだ!」
メリクは女王の要請によって、リュティスが陽の当たらない所で王家の敵を討ち滅ぼしていることを知っている。
……ちゃんと、見て来た。
あの人のことを。
力を使うまいと自分を戒めているのに、国の為にだけはリュティスは躊躇う事無く力を使って来た。そうすることでなお一層、自分がサンゴールの人間に恐れられることになるということを全て承知の上で。
「あれが王になれば必ず害をもたらす! 【魔眼】はその凶兆なのだ!」
メリクは拳を握った。
「王になりたいなどと誰が言った!
あの方は他国から嫁がれた女王陛下をいつも庇護されている!」
いつもいつもそうだ。
サンゴールの民は何故、こうもいつも猜疑心に満ちていて、暗黒の未来を考えているのだろう。メリクはいつも不思議に思っていた。
リュティスにしても【魔眼】の力で人を殺めたのは本当に幼い頃にただ一度、しかも彼自身制御しきれない魔力を暴走させるという不慮の事故によってだけだ。それすら、周囲の人間から向けられる不条理な目に幼い子供の心が耐え切れなかったこと。
それをいつもいつもまるで、リュティスが望んで何人も殺しているかのように彼らは言い続けている。
その裏側で、何度彼に自分達が守られているのかも知らず。
(野心がリュティス様に本当にあるというのなら、本当の王族であるリュティス様が奥館などに籠る必要もないことじゃないか!)
王族としての挟持があれほど高いリュティスが、アリステアの姫であるアミアカルバに王位を譲る決断をすることは、決して容易なことではなかっただろう。
それはリュティスに野心があるからではなく、サンゴールの血というものをどういう風に捉えるか、その違いだった。
しかしリュティスはアミアカルバを認めた。
彼女の覇権を。
ただひたすら、敬愛する兄が選んだ女性を信じたのだとメリクは思っている。
グインエルが選んだ女性をリュティスも重んじていることの証。
同時にリュティス自身、制御の難しい自分の力を自覚して最高権力を避けた理由もある。
(リュティス様はいつだって、サンゴールのことを想っているのに…………)
なのにサンゴールの人間は一度もリュティスを信じようとしない。
【魔眼】という恐ろしい力を持つ第二王子、そこから進もうと一度もしない。
「言わずとも分かること。お前は知るまい、第二王子がどれほど残虐なやり方でサンゴールの敵を葬っているかを」
メリクの脳裏に、氷の魔性を持つ女の悲鳴が蘇った。
……でも、彼はリュティスが何故そうすることを選んだのかもちゃんと知っている。
あの瞳を真っすぐに見返したのだ。
沈んだ光を放つ琥珀の光。
一瞬だけだけど、心が見えた気がしたこと。
メリクは信じ抜いた。
「それがあの方の使命だからだ。
女王陛下は魔力を持っておられない。王女も。
玉座は譲り、自らは陰となって女王陛下の剣になろうとなさっている……それが何故お前達には分からない!」
男達はメリクの説得にも平然とした顔をしていた。
「それは違うな。あの王子は血を好むのだ」
「……な……っ」
「あの王子は父王――メルドラン王によく似ている。
メルドラン王が偉大な王となったのは、
【オルフェーヴの大戦】でサンゴール軍を率いたからだ。
サンゴールの王族は比類無き魔力を持つが故に、戦時には重宝される。
武勇の誉れによってメルドラン王は後の世で英雄となったのだ。
だが平時において、メルドラン王は情けを持たない無慈悲な王だった。
あの王の氷の心の為に、それこそ何人の臣下の尊い命が失われたことか……」
メリクはメルドラン王を知らない。
彼が何をしたのかも知らない。興味もない。
でも、ずっと思っていた。
メルドラン王は何故、自分と同じ【魔眼】を持つリュティスを、もっと庇護しなかったのだろうかと。
(父が理解者になってくれれば。
あんなに心が凍るまで、孤独になる必要は無かった)
きっとメルドラン王はこの者達が言うように、無慈悲な王だったのだろうと思うことがメリクは何度もある。
――だがそれとリュティスは全く関係がない。
メルドラン王は【魔眼】の負荷に苦しみ、王妃とも心を通わすことが出来なかった孤独な王だとして……それは彼が選んだ道なのだ。
リュティスが人前に出ず、自分の力を悪戯に行使しない道を選んだ時から、彼は父王とは全く違う道を歩き出した。
そういう道を選んだ人なのだ。
「多くの魔物をその荒れ狂う力のままに殺し、顔色も変えず【竜の墓場】に死体を運び込ませる……その所業がどれだけおぞましいものか、お前は知るまい!
あれが人間に出来ることかっ!
サンゴール大神殿の全ての人間がこの国の未来を憂いているのだ!
竜の血の流れる曰く付きの王家とはいえ、
第二王子の残虐性は今までの王族の比ではない!」
「――――そんなことない!」
メリクは激しく首を振った。
まるで彼の叫びに呼応するように上空が光る。
……冷たい人だ。
あんなに冷たい人がいるのかと思うほどに。
こちらがどれだけ想っても心を開いてくれないリュティス・ドラグノヴァを、メリクは何度そう思っただろう。
それでも心のどこかで。
国やグインエル王を通して……ミルグレンを見る彼の眼差しを通して、彼の情けを感じることがちゃんとあった。
自分にそれが向かなくても、だからしっかりと捉えることが出来る。
例え竜の血がサンゴール王族を残虐に走らせたとしても、リュティスは決して戯れに他者を傷つけて悦ぶような人ではない。
メリクは無性に悲しくなった。
何故自分がこれほどリュティスの優しさを信じているのだろう。
自分の肌では感じたことのないもの。
それでも本能が、あの人は強い情けのある人なのだとそう信じている。
一度として自分に対してそれが向けられなくても、
分かるのだ。
……それもまた魔術師の直感なのだろうか?
メリクの心はいつだってリュティスを冷たい人だと思っていても、
もっと深い、本能の部分で優しさを捉え、
サンゴールの民はいつだって生きているだけで、日々リュティスの情けを向けられ、
守られ、慈しまれているのに、
彼らはそれに少しも気づかず、
そんなものはこの世に無いんだとメリクに対して、言い放って来る。
結果としてメリクが、あの人には情けがあるんだ自分には分かるんだと叫ぶしかない。
理不尽だった。
サンゴールにやって来てから、この国の人間たちはいつもそうだった。
普通はリュティスは何故あんなに冷たい人なんだと自分が言い、
それに対してずっと彼から守られてきたサンゴールの人間たちが、
【魔眼】を持っていてもあの人は国の為にその力を使ってくれる、
この国の守護者なのだと擁護するべきではないのか。
理不尽すぎる。
「人を黙視しただけで死に至らしめる王など暴君以外の何者でもない!
この状況が続けば魔物を狩るだけでは飽き足らず、
あの第二王子は必ずやその牙を女王陛下と王女に向けるだろう!」
メリクは我慢が出来なくなってついに怒鳴った。
「黙れ‼ 貴様らにあの方の何が分かる!」
普段温和な彼がこれほど激昂したのは、自分でもこれが初めてだと思った。
それほどに激しい思いが湧き上がって来ていたのだ。
「戦時には高き魔力と讃え、国の為に戦わせているくせに――、
平時には勝手に恐れ侮辱するな‼」
ザアアア…………ッ
細かい雨が大地に降り注ぎ続けている。
「……恐ろしい竜の魔力を持つ王子が、国の剣になるなど当然のことではないか」
ぽつりと一人の人間が言った。
メリクは目を開く。
「な……に……?」
「剣は剣らしく、物言わぬ身でいればいいものを……」
ゴォン……、
また低く空が鳴り出している。
男達が剣を抜き、メリクの方へ切っ先を向けて来る。
メリクは警戒を緩めず杖を身構えたまま叫んだ。
とにかく、こんな企てを実行させるわけにはいかないのだ。
「王位継承は!
あの方が決めることではない! 全ては女王陛下が判断なさること!」
「だからこそ消えてもらうのだよ。その存在が無くなれば、天命がそこへ転がることもないからな……」
――――リュティスの存在が無くなる。
メリクの心をその言葉は貫いた。
リュティスのあの鮮烈な魔力、気性……存在感が失われる。
それは文字通りメリクの頭の中を真っ白にさせるほど、大きな喪失感を伴う現実だった。
「そうなればそうなったでサンゴールは【光の王】の姫を擁立し、例え竜の血を薄めたとしても平和の続くよう……女王アミアカルバの治世を守っていくだけだ。宮廷魔術師団がこれだけ力を持てば、あの者たちがサンゴールの『魔』を担えばいい。荒ぶる竜の魔力を持つ王子などもう要らぬ」
「……そんなこと……」
平和?
……荒ぶる竜の血が薄まり命を脅かされることもない?
リュティスの存在しない、世界。
また光が頭上を走った。
すぐにバリバリバリッ、と空を裂くような音。
「……そんな世界…………、僕は生きない…………」
メリクは囁くような小さな声で呟く。
例えこの心の平穏と引き換えにしても自分はリュティスの存在を選ぶ。
今、そのことを一番強く感じていた。
自分が辛いとか悲しいとか寂しいとか……そんなことはメリクにとって些細なことだった。
リュティスの命が他者によって奪われて、その存在が失われる現実に比べれば。
あの人によって痛めつけられる自分の心など、どうでもいい。
最初から分かり切っていたことだ。
勝手に自分が慕って、
ついて行った。
何か見返りが欲しかったわけじゃない。
欲しかったこともあるが、無いならそれで構わない。
人間は最愛の人間に、愛を返されなくても生きてはいける。
心は永久に満たされることは無いかもしれないが。
それでも生きてはいける。
自分が幸せになりたくて、リュティスがいなくなることを願ったことなど一度もない。
(僕の心の平穏は、いつだってそこに結びついて……)
確かに辛かった。
どれだけ想っても省みてもらえないのに、その息吹だけは近くに感じるサンゴール王宮にいることは辛いことだった。
だから魔術学院へ移ったことも否定しない。
(でも)
それでも時折城に戻りリュティスの姿を見ると、どれだけ自分が彼に会いたいと思っていたかを何度でも思い知る。
リュティスがこの世に存在してくれているだけで、メリクの心はいつだって生きていられるのだ。
幼い頃、サンゴール城に突然連れて来られて右も左も分からなかった頃、リュティスに出会い、声を掛けてもらったときのように。
リュティスがいなくなればメリクの世界はまた色を失い灰色へと戻るだろう。
何も分からなくなるのだろう。
暗闇だけになるのだ。
(僕にとって、リュティス様の存在こそ『光』なんだ――)
この世で生きていく為に必要な、太陽の光のように。
【その知は闇に生まれて光放つもの】
幼い頃に出会ったあの魔術の文言のように。
メリクはこんな時にそれを思い知ったのだった。
「計画を知り、尚も抵抗するならば生かしてはおけぬ……」
ギラ、と残酷な刃が雷鳴を捉えて光った。
「子供とて我らは容赦せんぞ。どうするのだ……?」
冷たい刃。
命を奪うもの。
目の前の人間達はこれをリュティスに振り下ろそうとしているのだ。
しかも何の罪悪感もなく。
自分達がさも正義の使徒であるような顔をして。
(…………何が神職)
メリクは杖をゆっくりと下ろした。
地面に無造作にそれを投げ捨てる。
それを見て男達は、ようやくメリクが抵抗をやめる気になったのかと判断し、僅かに構えを緩めた。
(……何がサンゴール大神殿)
ただの反逆者だ。
人の善意も信じれず、悪戯に怯え、真実を見る目すら持っていない。
「…………貴様ら……」
メリクの唇から消え入りそうなほどの音で零れる。
「…………同じサンゴール人の分際で」
激しい雨が全身に降り注ぐ。
この冷たい雨が、心の憤怒をぬぐい去ってくれたら良かった。
でもそうはならない。
怒りの炎はこの皮膚の下の、もっと奥底で燻っている。
リュティスはメリクの顔を張り飛ばしても、
サンゴールの者達のことは、あの大いなる魔力の宿る手で守っている。
サンゴール王宮に在る、異端。
この国の者ではない。
リュティスの氷のような瞳はいつもメリクにそう告げて来る。
リュティスに守られる者たち。
メリクがこの国に来て、
一番欲しくてたまらないと願い続けて、
しかし永遠に手に入らないものを持っている。
それがサンゴール人だ。
「王子に生まれたが為に引き受けた宿業を……、
どれだけ疎まれようとも闇の中で戦い続けているあの人を……」
何度この、自分の心の弱さを呪っただろう。
【悪才】。
感情にまかせて魔力を行使したことをリュティスに諌められたあの日から。
「……貴様らはまだ……敬意のかけらも無く傷つけるつもりだと……」
彼の教えに反した行いだった。
メリクはいつも、リュティスが邪悪でない証は、自分が正しい術師となることで立てられると思って生きて来た。
そのために自分を戒め、押さえ込んで来た。
たとえ悪しき才を持って生まれても、正しい心でそれは封じることがきっと出来ると。
リュティス・ドラグノヴァのように。
自分の心さえ正しければ。
だが、その時のメリクは男達を前にして、そう思うことすら不条理なことに思えたのだった。
こちらがどれだけ懸命にそうして見ても彼らはそれを見ようともしない。
感じようともしない。
罪悪感を感じるのはこちらだけで、それでなお邪悪な才を持っているのだから、邪悪に走るに決まっているとそう言い放って来る。
それだけならまだしも、今回は訳が違う。
命すら投げ出せと要求して来たのだ。
(…………どっちが邪悪な魂だ)
メリクはゆっくりと俯かせていた顔を上げた。
その翡翠の瞳が不思議な光を放っている。
……前は、相手が魔術師だった。
だが今回はそうではない。
魔術師でない人間は愚鈍だった。
自分達が剣を突きつけている相手が、その時、静かに『本当の剣』を抜き放ったことに全く気づかなかった。
そして前は悪意のない人間が相手だったから、メリクは自分自身を責め続けた。
彼らに危害を加えたことを。
だが今回はリュティスの背に剣を振り下ろそうとするこの者達のどこに、善意を探すことが出来るだろうか?
この場に悪意の無い者など一人もいなかった。
全部、悪だ。
「第二王子が死んだ後に自由にしてやろう……」
「さぁ、そこに膝をつけ!」
「捕らえろ!」
(こんな人間を何人殺した所で、僕には一切の良心の呵責も無い)
――――それが、メリクの下した結論だった。
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