第3話
ゴコ……ン……
遠くの空が鳴っている。
しとしととついに降り出した雨にメリクは溜め息をついて術衣のフードを頭から被った。
ラキアより更に北。フルトキアの深い森。
いつもより遠出した途端これである。
あんなに晴れていたのにと呆れるような天気の変わり様だった。
遠雷が近づいて来ている。
乗っている馬の耳が忙しなく動き度々歩く足が鈍った。
「ダメだな、これは……」
ラキアの修道院にも戻れそうにも無い。
樹々の葉が深く重なる森だから今はまだ雨も降り注いで来ないが、この調子では数刻もすれば激しい雷雨に打たれるだろう。そうなると森の様子は一変する。
「やれやれ……」
怯えて動かなくなった馬から下りて手綱を引き、メリクは歩き出した。
とにかく雨を凌げる場所を探さなくてはならない。
ラキアならば多少土地勘もあるメリクだが、フルトキアまでは来たことは一度もない。 民家でもあれば少しだけでも屋根の下に入って凌がせてもらうのだが、このグリュエンの森は確かサンゴール国教会の領地で民家は建てられなかったはずだ。
「確かもう少し北に行けばグリュエン教会があったはずだけど」
ぽつぽつと鼻に雨が当たり出すと、メリクは前に行っても後ろに行ってもそんなに違いはないなと諦め出してしまった。城を抜け出しここまで出て来しまったのは自分なのだから、もうこれは仕方がない。
せめてこの運の無い散歩に付き合わせてしまった馬の為に、メリクはとにかく歩き出した。
馬が使えないとラキア修道院へは一時間はかかる。それよりもこのあたりにあるはずのグリュエン教会を目指した方が早いと判断したのであった。
十五分ほど歩いた時、すでに大分降り出していた雨の中森の樹々の向こうにチラと灯りが見えた気がした。
メリクはほっとする。
グリュエン教会の灯りだ。
「少し雨が止むのをあそこで待たせてもらおう……」
馬を引きながらメリクは森の中にぽつりと立ったグリュエン教会の側まで行った。
すでに全身濡れていたし、この夜中である。
わざわざ中に入ると人の迷惑になると思い彼は教会の裏手にあった、丁度石壁がくぼんで屋根のようになっている所を見つけるとそこまで歩いて行った。
すでに冬に差し掛かっているサンゴール王国である。
さすがに雨に打たれれば寒かったが厚着はして来ていた。雨に濡れていたのもまだ服の表面だけだったので雨雫を払い落とせばあとはもう大丈夫だった。
息は少し白かったがさほどメリクは寒くなかった。……随分サンゴールの冬にも慣れたものだと思う。
メリクは布を取り出すと、馬の身体についた雫を自分と同じように払ってやった。
すごい雨だったが長くは続くまい。
あと一刻もすればこの雷雨を呼ぶ雲は東へと去って行くはずだ。長雨の時期でもない。
メリクは石段の上に腰を下ろした。
ザザザザ……
空が光り、低い音が走る。
かなり激しい天気だったが、メリクはというと頬杖をついたまま静かな表情で空を見上げている。
魔術師というものは確かに、常人より雷というものに慣れている存在ではあった。
それに彼は空が荒れている天候も嫌いではなかった。空が荒れていると人は家の中に戻って息を潜めている。あのいつもと違う静けさが好きなのである。
すぐ頭上で音が鳴った。
その天の怒りのような真下で、メリクは平静な顔で目を閉じ、しばらく休むことにした。
……どのくらい経っただろう。
いつの間にか雷鳴が遠ざかっていた。
だがまだ雨は降っている。雨粒が草木の葉や地面を打つ音がする。
順調に収まっていく天気を肌で感じながら、メリクはこの感じでは、雷雨は明け方には止むかもしれないと思っていた。もし晴れたならラキアの湖沿いを通って帰ろう。湖に差し込む朝陽の光景はそれは綺麗になりそうだった。
メリクは翡翠の瞳を開く。
――ふと。
目前の暗い森の奥に何かが見えた。
頬杖を崩して幻かと思いもう一度見ると、今度は灯りが三つ並んで移動していた。
まだ夜中、しかもこんな雷鳴の夜に。
気を引かれてその灯りを目で追っているとそれは人なのだと分かった。
メリクの目の前の森をぐるりと迂回し、どうやら三人の人影はこの教会に入って来るようだった。
旅人かもしれない。
メリクも一時期修道院に身を置いていたから分かるのだが、こういう天候の時には旅人などが止む負えず教会などに助けを求めて駆け込むことは珍しくはない。教会が夜闇の中でも灯りを絶やさないのはそういった、彷徨い歩く人々の道しるべになる為なのだと昔 いた修道院の司祭に教えてもらったことがある。
メリクは決して、人に対して必要以上に好奇心は持たない少年だった。
いや、もともとは何事にも好奇心旺盛ではあったがサンゴール城で――リュティスの側で過ごすうちに、彼は過ぎた好奇心はいつだって身を滅ぼすということを、嫌というほど学んだのだった。だから今では好奇心をちゃんと押さえ込む術を知っている。
が、その時は何もすることが無かったので、何となく立ち上がり少し上階が突き出しているため濡れない壁沿いに歩いて行き、壁からそっと顔を出してどんな旅人達だろうかと様子を窺ったのだった。
視力の非常にいいメリクの目でも、この細かく強い雨の中随分距離があったので旅人達の顔を見ることは出来なかった。
しかし魔術師として磨き抜かれて来た神経が嗅ぎ取ったのである。
『異質な気配』を。
これもまた優れた魔術師の特徴だった。
人の群の中に混ざっていようとも異質なる者を見抜く力である。
建物の中から黒衣で身を固めた二人の人間が出て来た。
神父という感じでは明らかに無かった。
彼らは周囲を執拗に窺うような素振りをしてから、手を挙げた。
森の中の明かりが消える。
三人の男達は早足でそこを駆け抜け建物の中に消えていった。
用心深く二人の男が最後まで周囲を見回し、やがて彼らも建物の中に入っていったのである。
ザ――――……
降り続く雨。
彼らが奥に消えると、何も無かったかのようにあたりには雨と風と、遠くの空が鳴る音しかしなくなった。
メリクは俯く。
自分の濡れた靴の先を見つめた。
少しずらしてみるとジャリ……と細かい石が鳴った。
(……?)
彼はその時違和感を感じた。
周囲を見回す。
崩れた石柱の欠片。細かい石屑が目立つ。
変に思って振り返り建物の石壁を見上げる。
「ここは……」
ようやく気づいた。
そこはグリュエン教会ではなかったのである。
屋根が崩れている。
古い建物のようだ。家というより神殿に近い気がする。割れたまま薄汚れたステンドグラスが見えた。
裏手から来た上にこの悪天候で暗かったので気づかなかったのだ。
「なんだろう。古い神殿の跡地……?」
メリクは表の方に回ってみた。
正面の入り口はひどく壊れていた。二階部分がそのまま崩れ落ち正面の扉を完全に埋めている。
だが先程の男達は中へと確かに入っていった。
よくそのあたりを調べてみると、伸び放題に生い茂った草の間に空洞が見えた。
そっと草を掻き分けてみる。するとそこは大人一人がくぐれるほどの穴があったのだった。どうやらここから中に入れるらしい。
側の砕かれた石柱をメリクは見た。
竜の彫像が彫られている。
サンゴールにおいて竜の像を彫れるのは特別な彫師だけであり、飾れるのも王家に関わる所か国教神殿だけと定められている。
「国教神殿あとか……?」
だが宮廷魔術師としてサンゴール全土の神殿は頭に入れていたつもりだったが、こんなラキアの奥地に国教神殿があったことはメリクは知らなかった。
恐らく随分前に壊れた為、閉ざされたまま忘れ去られたのだろう。
だがそれも建物の様子から見れば無理も無かった。半分以上崩れていて廃墟としか言いようがないのである。
メリクは石柱の下のあたりにしゃがみ込み、草に隠れている石柱の根元に古い文字か刻まれているのを見つけた。
劣化している上に汚れていてひどく見えにくかったが文字は読めた。今は使われていない古代サンゴールの文字だがメリクには読むことが出来た。普段から古文書と向き合っている成果だろう。
「《聖キーラン暦230年、王の七番目の王子オルラシオンの戴冠を祝して光の神殿を建設する……納められし宝玉は高貴なる竜の花嫁ホーリアナの名で封じられる。王脈の血に栄えのあらんことを》……大陸暦230年……では今から七百年以上も前の神殿跡なのか……」
メリクはさすがに驚いてもう一度崩れかけた建物を見上げた。
ここがどういう場所かはおおよそ分かった。
分からないのは先程の人間達の素性である。
こんな忘れ去られた国教神殿跡にこんな雷雨の中。
……メリクはまず男達を夜盗かもしれないと考えた。夜盗が神殿跡をアジトにとはなかなか大胆な所だが、ここまで崩れかけているのなら無いことはないかもしれない。
だが、彼はラキアの治安が良いことをよく知っている。
王都にも近く国教神殿の大本山がサンゴール王都にある為に分殿や教会も多いのだ。
ラキアとフルトキアはサンゴールの中でも特に聖職の多い街とされている。
物盗りが出ないとはいわないが、こんな所に夜盗集団が潜んでいるとは考えにくい。
(それに)
メリクは何故かまた強くなって来た雨空を見上げた。
このまま雷雲は遠ざかると思っていたのに、また空が光り始めている。
先程見た人間達の仕草。これは幼い頃から城の中で育てられて来たメリクだから分かることだった。
(あれは夜盗ではない)
どこがどうということはないが、そういうものは人のおおよその雰囲気に現われる者なのだ。男達の歩き方、周囲を見回すときのあの仕草。
(……あれは公務機関に属する者の立ち振る舞いだった)
公務機関――サンゴール城の関係者?
だが黒衣を身に纏っていた一味は騎士団か、大神殿の者か、それ以外の者か……遠目からは判断出来なかった。
ただし宮廷魔術師団でないことだけは確かである。
魔力の気配はしなかったのだ。
魔術師というものは同じ魔術師がいればすぐにその存在を感じ取れる。
彼らの中には間違いなく魔術師はいなかった。
神官も魔法は使うが、神官の使う魔法と魔術師の使う魔法は異なるためすぐに分かるのである。
城にいて、女王アミアカルバの養い子のように遇されていても、もちろんメリクには全ての城の行事が知らされているわけではない。だがそれにしても彼らの気配は変だった。 ひどく周りを警戒していたように思えた。
「……。」
メリクはしばし逡巡したが、やがてそっと草を掻き分けて建物の中に入った。
予想していたが中も、もちろんひどい荒れ様である。
天井が崩れてぽっかりと穴が開いている。建物のいたるところは時に浸食され、黴が生え、壁には一面びっしりと地面から伸びた植物の蔓が複雑に張り付いて葉まで茂らせていた。
ザァ――――……
中央に雨が降り注いでいる。
メリクはゆっくりと中を見回した。人の気配はない。彼は耳を澄ませる。
だが外の雨の音がひどくてやはり窺うことは出来ない。
メリクは壁伝いに奥へと歩いて行った。二階は崩れているので人がいるのだとしたら地下しか無いと考えたのだ。入り口があるはずだと思い地面をじっと見ながら歩いていると、 彼はようやく幾重にも重なる倒れた石柱を越えた先に、厚手の布で覆い隠された地下へ続く道を見つけたのである。
暗い。
だがメリクは闇の中はあまり怖くない。夜目も利く方だし気配も探れる。
ここまで来たのだと彼は迷わず地下への階段を下りていった。
黴の匂いが鼻を突く。
雨の水が少し流れ込んでいて、苔が生えた階段は非常に滑りやすくなっている。
一本の階段は螺旋を描きながら地下深くまで伸びていた。
随分深いな……と思った時、斜め下の方から灯りが近づいて来た。古い扉から漏れる光。
人の気配がはっきりとした。一人二人ではない。間違いなく先程の人間達である。
メリクは扉に近づくと注意深く身を屈めた。
すると、夜闇に目が慣れて来るように耳を澄ませば声がはっきりと聞こえて来た。
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