第2話
メリクは週末アミア達に会いにサンゴール城に戻っていたが、夜になると城を抜け出して城下町を越え――自分が幼い頃一時、身を寄せていたサンゴール郊外の街ラキアまで馬を駆らせ湖や森の中で一人夜を過ごすのが常だった。
一人夜の空気の中で過ごしていると少しでも心が静まるのである。
そして夜が明ける頃に城に戻るとようやく眠気が少し訪れ、数時間だけ眠るのだった。
魔術師の直感なのだろうか。
何故自分はあの日あの場所に行ったのだろう?
それはそれ以後、メリクが何度も何度も自問することになる問いになる。
そういう風に城は確かにいつも抜け出していたが、ラキアより更に北のフルトキアまで行ったことなどそれまで一度もなかった。しかしあの日は何故かそこまで足を進めていたのだ。
深い森を越えて……そんな所に行ったのは初めてのことだったのにも関わらず、その日に限ってその身があんなことに巻き込まれるのだから、それはやはり何らかの予感が無意識にでもあったのかもしれない。
そういうことは幾度かあった。
一度目は幼い頃、グインエル王の私室に無断で入り込んだ時。
二度目はグインエル王のことを子供の無邪気さでリュティスから聞き出そうとした時。
……時が戻るなら決して繰り返すまいと思う一瞬である。
幾度も思い返す――……悪夢と共に。
しかし同時に考えてみること。
もしその魔術師の直感を得られずあの場に行かなかったとしたら。
その事態が引き起こしたであろうことを考えると、そちらの方がメリクにとってよほど悪夢だった。
だからメリクはあの日起きたことを、自分の手によって起こしたことを後悔するのだけは止めようと心に決めていた。
慕う人に『魂の下賤』と呼ばれた所業に、もう一度身を染めたこと。
それでもいい。
決して後悔はするまいと。
今以上に疎まれようと警戒されようと……そういう所業に身を染めないと、生きていけないこともあるのだと。
運命の理不尽は自分の人生に起こり得るものなのだと。自分に言い聞かせるのだ。
メリクは幼い頃から、自分の心の中に憎しみや怒りをあまり留まらせないようにしていた。そういうものを抱いていると自分の心が清らかにいられないと思っていたからである。
だがそれは過ちだった。
人にとって本当に大切なのは清らかかどうかではなく、それが自分にとっての真実であるかどうかだった。
メリクはこの夜、ずっと自分を偽って生きて来たのだと気づいた。
自分の中に当然生まれる憎しみ、怒り、悲しみ……そういう負の感情は全て自分の正しい理想や望みの裏返しに顕われるものであり、それを否定すれば自分が失われていくことだということが長く分かっていなかった。
貴方に嫌われて悲しいと口にすれば良かった。
自分は野心家ではないと怒れば良かった。
それで身を滅ぼしたとしても、それが人の本質なのだ。
メリクはずっと自分のそういう醜い想いから眼を反らし逃げていた。その結果気づいた時には、周囲には一切本当の自分の姿を躊躇いも無く見せるようなことは出来ない自分になっていた。
人が推察する自分は本当の自分の姿とはいつもかけ離れていて、人というものは結局、他人の目に映る自分で世界を生きている。人の目を偽り続けた自分はもはや現実には真実の姿で存在し得なかった。
真実の方が虚構になってしまったのだ。
自分を偽るべきではなかった。
人は自分自身からは決して逃れられないのだから。
だからこの夜起きたことに関してメリクは説明も言い訳もしないとそう誓った。
それは四歳の時に故郷も家族も奪われて――他人の手に拾われ、以後ずっと自分の人生を他人の手に委ねて来た少年が初めて、自分の意志で自分だけの秘密の領域を手にした瞬間だったのかもしれない。
これ以後メリクの人生は一変した。
まさに運命の一夜であった。
『エデン』と呼ばれるこの世界に破滅をもたらす天の災いは、すでにそこまで差し迫っていた。
しかしこの時期誰一人としてその破滅を自分の人生として照らし合わせて感じ取った者はいない。
その中でメリクだけが自分の破滅の予感を強く感じ取っていた。
天の災いを予知するようなものではなかったが、彼は自分の人生がこの先、光の中にその枝を伸ばすことはもう二度とあるまいと――死病に冒された老人のような暗黒の予感を、十六歳の彼は感じ取っていたのである。
【サダルメリク・オーシェ】。
竜紋の国サンゴールの王家に十三年間確かに存在した彼の名は、いずれサンゴールの公の系譜から全て消去されることになる。
だからサンゴールの民でない者達にとって、この名は決してサンゴール王国とは結びつかない。
人々にとってその名は聖キーラン歴1000年から始まる【エデン天災】と呼ばれる暗黒時代に突如どこからか現われた得体の知れないものだった。
彼は過去を持たざる者。
出生は全て謎に包まれていた。
ただ明らかなのは彼が【エデン天災】の時、世界の空を覆いつくした死の瘴気、それを晴らそうと動いた数多の若者達のうちの一人だったということである。
だから彼は歴史の中では、単純な善人としてしか描かれることはない。
出世欲とは縁が無く、世界各地をただ力の無い人々の為に旅をした吟遊詩人。
ただ優しさと善意からそうしたのだとしか描かれることは無い。
過去を描かれることがない者は、真実もまた描かれることは無かったのである。
曖昧な虚像であるサダルメリクの名が後の世に残った理由は彼自身ではなく、彼と旅路を共にした青年が【エデン天災】の発生源である『次元の狭間』を命を賭して閉じた勇者エドアルト・サンクロワであったからに他ならない。
自分の身を犠牲にして世界を救ったエドアルトの鮮烈な自我は尊い英雄譚として後の人々の心に強く残ることになる。が、追従の一人であったサダルメリクの姿はそれほど強く世界に残らなかった。
勇者に追従したのが吟遊詩人だとは描かれても、それと共にサダルメリクの名が思い出されることはあまりなかった。その証拠に後の世で勇者エドアルトに追従した吟遊詩人の姿は、盲目の老人であったり神から使わされた天使であったり修道女であったりと姿は様々に変容した。
ここでもサダルメリクの真実の姿は、世界に対して大きな意味は成すことは無かったのである。
そして何より……メリク自身も世界に対し自分の名と姿が、正しく残ることを望むことは決してなかった。
何故なら彼の真実の姿は、この運命の夜に雷鳴と共に闇の中にすでに葬り去られていたのだから。
彼にとって消えたサンゴールでの過去も、何者でもなく彷徨った【エデン天災】の未来も、ただ曖昧な頼りない記憶に過ぎない。
皮肉にもメリクにとって唯一忘れ得ぬ、自分の人生の一部であったと思える記憶は十六歳のある夜に起こったこの出来事だけだった。
忘れられないのは、この出来事によって確かに何人かの人間の命が奪われたからである。
結局人間が本当に忘れられないのは、取り返しのつかない出来事が起きた時だけなのかもしれない。
メリクの人生にとって取り返しのつかない出来事とはこの夜の一連の出来事と。
……これより十二年前に、あのサンゴール王宮の礼拝堂で【
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