帰宅後の惨状
夜、ドアを開けた瞬間、むせ返るほどの甘い香りが鼻を突いた。ケーキ屋の裏口みたいな匂い。
「……何が起きたの」
靴を脱ぐ前に、私は本能的に問いかけていた。
リビングの空気がもわっとしている。部屋いっぱいに洗濯物が吊るされ、カーテンレールにもハンガーが連なっていた。
タオル、パーカー、Tシャツ。空中に浮かぶ洗濯物の森。
「おかえり!」
ソファの背から顔をのぞかせた
「がんばったよ!洗濯、二回まわした!」
二回。嫌な予感しかしない。
私は洗濯機の前に立ち、ふたを開けた。
ふわっと立ちのぼる湯気。鼻を刺すような香り。
「……柔軟剤と洗剤、どっちも二倍?」
「だって、清潔すぎて悪いことないでしょ?」
「それはもう、香りが暴力の域に達してる」
言いながら、思わず笑ってしまう。
こんなふうに“どうしようもないドジ”を目の前にして、笑いが先に出たのはいつぶりだろう。
床には除湿器と取り扱い説明書が転がり、扇風機は天井を向いてうなっている。
「ねえ、どうして上向けてるの?」
「上から乾かしたら、重力で早く乾くかなって」
「……発想が自由すぎる」
溜息をつきながら窓を開け放つ。夜風が入り込み、過剰な甘さを少しずつ薄めていく。
「ごめんね、
背後から声。唄が指をいじりながら立っていた。
「うん、まあ……びっくりはしたけど。生きて帰れたから良しとしよう」
「それ、ほめ言葉?」
「たぶん、最上級よ」
唄はくすっと笑い、部屋の隅に転がったハンガーを拾い上げる。
「ねえ、美琴さん」
その甘えた声のトーンを、私はもう聞き分けられるようになっていた。
「このあとさ、プリン買いに行かない?がんばった自分たちにご褒美!」
「がんばった自分“たち”?」
「えー、洗濯物見てくれたし、空気入れ替えてくれたし、共同作業じゃん」
そう言って、こちらを覗き込む瞳が少し潤んで見える。
断る理由を探してみるけれど、頭の中に浮かぶのは、
外の夜風の匂いと、どこか楽しそうな唄の横顔ばかり。
「……じゃあ、少しだけ」
「やった!」
唄がスリッパを鳴らしながら玄関へ駆けていく。
私はスーツの上着を脱いで、軽く畳み、ため息のように笑った。
“断れなかった”というより、“断わりたくなかった”。
そう気づいて、自分でも少し驚く。
夜の街は、昼間より静かで、店の灯りがアスファルトに柔らかく映っている。
コンビニの前で、唄が振り返って言った。
「プリンってね、幸せの味なんだ~」
その言い方があまりに自然で、私は思わず笑ってしまう。
「へえ、ずいぶん安上がりな幸せね」
「安上がりでしょ?でも、誰でも手が届くんだよ」
唄はそう言って、明るいガラスのドアを押し開けた。
中から漂う冷気が、ほんの少し、心まで軽くしてくれた気がした。
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