焦げた朝と、やわらかな午後
目覚ましが鳴るより早く、何かが焦げる匂いで目が覚めた。
寝室のドアを開けると、リビングの空気がうっすらと甘苦い。
「……まさかね」
キッチンに向かうと、トースターの前で
「ごめん!ちょっとだけ目を離したら!」
「ちょっとって、何分?」
「三曲ぶん」
「曲の長さで時間を測る人、初めて見たわ」
皿の上には、炭のようなトーストと、形のあやしいスクランブルエッグ。
「朝ごはん作ったの。
「……その努力は認める。結果は置いといて」
「結果より過程が大事って、会社でも言われない?」
「うちは成果主義なの」
私は無言でトーストを救出し、もう一枚焼き直す。
バターを塗る私の横で、唄は潤んだ目で炭をつついている。
「ごめんね、やる気はあるのに、火だけが味方してくれない……」
「火は平等よ。取扱説明書を読んだ者にだけ優しいの」
唄がふるふると首を振る。可笑しくて、思わず笑ってしまう。出勤前に笑うなんて、いつ以来だろう。
「コーヒー淹れる。ドリッパー、そこ」
「はーい!」
返事だけは百点。だが次の瞬間、計量スプーンが見当たらず、唄は勘で豆を入れはじめた。
「待って、待って。指で測るな」
せわしなく手を伸ばして調整しながら、気づけば私の声は少し柔らかい。時間はないのに、苛立ちは不思議と湧かない。
焼き直したパンと、なんとか形になった卵、そして濃度のばらけたコーヒー。
「いただきます」
同時に手を合わせる音が、台所に響く。出勤時刻が背中を叩く。けれど、誰かと朝を分け合うだけで、今日が少しだけ軽くなる。
玄関でパンプスを履きながら振り返ると、唄が指を振って笑った。
「いってらっしゃい、美琴さん!」
私はため息をつくふりをして、小さく手を振り返した。
***
会社に着く頃には、いつもの通勤ラッシュの波も落ち着いていた。
パソコンを立ち上げ、資料を整理しながら、無意識に鼻歌を口ずさんでいる。
自分でも気づかないくらいの小さな変化。
「
隣のデスクの後輩が、モニター越しに言う。
「え?」
「いや、なんていうか、前より話しかけやすいっていうか……」
「気のせいよ。寝不足なだけ」
苦笑でごまかすが、彼女はまだ首を傾げていた。
午後の会議では、上司からの無茶振りにも、前ほど苛立たなかった。
それどころか、ひと呼吸おいて答える自分に気づく。
(どうしてだろう)
たぶん、誰かが焦げたトーストを差し出してくれるだけで、
世界は少しだけ穏やかに見えるのかもしれない。
退勤時間を少し過ぎた頃、窓の外に雨雲が流れていく。
あの日の夜と同じ、湿った風の匂い。
美琴はふと笑みをこぼした。
きっと今ごろ、唄は部屋で洗濯物と格闘しているだろう。
そう思うだけで、足取りが少し軽くなった。
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