第一章: 拾われたのは、誰???
はじまりはいつも待ってはくれない
雨の日に、人生を拾われた――なんて、そんな物語みたいな言い方をしてみたくなる。
けれど、本当のところは違う。
私はただ、疲れて立ち尽くしていただけだった。
何もかもがうまくいかなくて、前にも進めなくて、その上、傘すら忘れてきた。
追い打ちをかけるような夕方の雨に、どうでもよくなって、ただその場にうずくまってしまいたかった。
そんなときだった。
「はい、これ、あげる」
ぱさり、と。
白い傘が、私の頭上に差し出された。
視線を上げると、ワンピースの裾が風に揺れて、黒髪の女の子が笑っていた。
その笑顔は、どこか輪郭が曖昧で、まるで夢の中の出来事みたいだった。
なにか言おうとしたけれど、うまく言葉が出てこなかった。
私はただ、その子の手に引かれるまま、雨の中を歩き出していた。
あれから三週間。
「
「……買ってきたのも、作るのも私だけど。一応、聞くだけは聞くんだね……」
ため息混じりに答えながら、私はキッチンで鍋の蓋を持ち上げた。
湯気といっしょに、昆布と味噌の匂いがふわっと広がる。
その向こうでソファに寝転んだままの彼女――
名前は
黒に近い明るめのブラウンの髪が肩にかかるくらいで、白い肌にかかる影がやけに柔らかい。
見た目は十八か十九。でも缶チューハイを普通に飲んでいたし、たぶん二十歳は過ぎている。……そうであってほしい。
職業は不明。家もない。お金も持っていなかった。
だけどなぜか私の部屋に住みついて、まるでここが自分の巣みたいな顔をしている。
唄がソファから身を起こして、にこりと笑う。
「ねえ美琴さん。雨の日にあたしが拾ってあげたんだから、もうちょっと感謝してくれてもよくない?」
「……いや、実際に家に住まわせて、ごはん作ってるの、私なんだけど……?」
「それはそれ。恩は恩」
「その理屈、どこの世界で通用するの……」
会話のテンポが、最近やけに自然になってきた。
最初の頃は、まるで嵐が部屋に押し寄せてきたみたいだったのに。
――あの日、雨の中で差し出された白い傘。
「はい、これ、あげる」
その声が、いまだに頭の奥に残っている。
差し出された傘の下で、私はなぜか逆らえずに、その子の手に引かれて歩き出していた。そのままどこかの喫茶店で温かいココアを奢られ、事情を聞けば「泊まるところがない」と。
そのときは一晩だけのつもりだった。
……気づけば三週間だ。
私、
広告代理店勤務。仕事に追われ、恋も結婚も遠い。
特別に不幸なわけじゃないけれど、心を満たすものもない。
平日も休日も、静まり返った部屋でハイボールを片手に過ごすのが日常だった。
人からは「自立しててすごいですね」と言われるけど、本当はただ、誰にも頼れないだけだった。
そんな生活の中に、唐突に現れたのが唄だった。
彼女は家事が壊滅的で、洗濯機には洗剤を山ほど入れ、掃除機のフィルターを詰まらせ、料理をすれば鍋を焦がす。
それなのに、なぜか憎めない。
「ごめんね、美琴さん。あたし、やる気はあるのに……」
しゅんとした顔でそう言われると、怒る気も削がれてしまう。
不思議な子だと思う。
笑うときの声が、まるで雨上がりの空気みたいに柔らかい。
でも時々、ふっと遠くを見るような目をする。
誰かを思い出しているのか、それとも何も見ていないのか。
その目に、言葉にできない空白がある。
私の部屋は、もともと音のない場所だった。
テレビも時計も、ただ動いているだけの空間。
でも今は、唄の鼻歌が聞こえる。
冷蔵庫を開ける音、プリンのスプーンが小皿に当たる音。
それらが、奇妙に心地いい。
――この子は、本当にただの天使なんだろうか。
それとも、私の空っぽを嗅ぎつけてやってきた、小さな嵐なのかもしれない。
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