うたかたの居場所

ウニぼうず

プロローグ

その日、私は朝からずっと噛み合っていなかった。

目覚ましのアラームを一度止めたのが運の尽きだった。寝坊したのは半年ぶり。普段ならきっちり畳んで鞄に入れている折り畳み傘を、慌てて出たせいで置き忘れた。天気予報も見逃した。髪は湿気で膨らみ、口紅の色もなんだか薄い。


会社に着く前に上司から電話が鳴った。昨日送った企画書に「誤字がある」と言われた。昼にはクライアントに日程をすっぽかされ、午後の会議では同僚が投げた爆弾の後処理を私が引き取った。

小さなストレスが、積み木のように音もなく積み重なっていく。

気づけば息をするだけで、胸の奥がきゅっと縮む。


終業後のビル街は、人で溢れていた。駅へ向かう群れの中で、私は一歩も動けなかった。

疲れが、足にまで染みている。

ただ早く帰ってシャワーを浴びて、何も考えずに寝たい。

そう思った瞬間、空が低く鳴った。


次の瞬間、雨。

最初はぽつり、ぽつりと。やがて滝のように音を立てて降り出した。

人々が慌てて傘を広げ、駆け出していく。

私は鞄を見下ろし、そこに傘がないことを確認して、ただ立ち尽くした。

信号の光がぼやけて、世界の輪郭が溶けていく。

誰かが笑い声を上げる。タクシーが水をはねて通り過ぎる。

自分だけ、取り残されたみたいだった。


冷たい雨が肩を打ち、髪を濡らし、スーツの生地が肌に張りつく。

ああ、もういいや──そう思った。

もう頑張らなくても、誰も困らない。

そう考えたら、少しだけ楽になった。


そのときだった。


ふいに、頭上の雨音が止んだ。

顔を上げると、透明な傘が差し出されていた。

見上げた先に立っていたのは、私よりずっと若い女の子だった。

白いブラウスの袖が雨に透けて、細い指先が持つ傘の骨が震えている。

髪は黒に近いブラウンで、光の加減で少しだけ赤く見えた。


「濡れちゃいますよ、お姉さん」


声は柔らかく、でもまっすぐだった。

思わず一歩、傘の下に入る。

雨の匂いが遠のいて、代わりに石鹸のような、懐かしい香りがした。


彼女はにこりと笑った。

街の光がその笑顔に滲み、まるで光そのものが形を持ったように思えた。

何かを言おうとして、私は口を開きかけて──何も出てこなかった。


ただ、泣きたかった。理由なんてなかった。

知らない誰かの優しさに触れた瞬間、張りつめていた糸が音もなくほどけていくのが分かった。


「……ありがとう」


ようやく出たのは、それだけ。

それでも彼女は嬉しそうに頷いた。


──あの夜から、私の生活は少しずつ変わっていく。

まるで、雨に差し出されたその傘が、私の世界の色を変えたみたいに。

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