第8話 闇の底で

 炎の中に飛び込み、札に封印されたハクは何も見えない真っ黒な場所にいた。

右も左も、上も下も、どこを見ても黒い。

光なんてものはなく、自分の手すらも見えない。

「…やはりこうなるか…。まぁ、大方予想通りと言ったところだな」

あの炎の中に飛び込めば、剣士と共に封印されることは予想がついていた。

もしかすると、もう出られないかもしれない。

アーリアたちを置いていくことになったらどうしよう。

そんなことも、頭をよぎった。

それでも…炎に包まれる直前の剣士は、とても悲しそうな顔をしていた。

元々、誰にも知られる予定のなかった感情たちだ。

それをヴィラドに勝手に集められ、あんなに悲しい者を作り出してしまった。

そりゃあ、本気で誰かを憎んだり恨んだりすることもあるだろう。

私も同じように、負の感情を持っていない存在ひとなんてこの世にいない。

あの剣士は、私たちにとって敵。

本当なら、放っておいても誰からも非難されない。

けれど…実験の結果としてこの世に生まれ、何も知らないのに戦わされ、何も悪くないのにこんな暗闇の中に閉じ込められる彼が、あまりに可哀想だ。

だから、飛び込んだ。

もし私に何かあっても、リンとレンが何とかしてくれる。

オクト船長やナセアが、アーリアたちのことを支えていってくれる。

そんな確信があったから…彼らのことを心から信じていたから、私は何のためらいもなく炎の中に飛び込めた。

アーリアが知れば、一発でぶちギレられるなぁ…。

そんなことを考えながら、ハクは着々と歩みを進めた。

どれだけ歩いても、周りの景色が変わることはない。

まぁ、忍として様々な修行をこなしてきたハクにとってはなんてことなかったが、普通の存在ひとならとうに気が狂っていただろう。

しばらく歩いていた、その時だった。

『憎い』

『どうして』

『なにもしていないのに』

急に、男とも女とも区別がつかない声が響いた。

それを境として、次から次へと言葉が響いていく。

『妬ましい』

『復讐する』

『絶対に許さない』

『どうしてオレだけ』

『殺してやる』

どれもこれも、誰かの本心だったのだろう。

言葉が、心まで黒く染めようとしてくる。

それでもハクは、歩みを止めなかった。

心も体も、どんどん苦しくなっていく。

それでも、それでも…。

言葉が響き始めてから、またしばらく歩いた。

言葉は今も、とどまることを知らずに絶え間なく響いている。

その言葉の一つ一つを、ハクは決して聞き流さない。

一言一言、全て真っ向から受け止める。

聞き流せば良いのかもしれない。

でも、この言葉は全て、誰にも届くことのなかった…誰にも返事を返してもらえなかった言葉たち。

誰かに聞いてほしくて、でも、誰からも返事を返してもらえない辛さを、ハクも知っていたから。

レンが死に、リンもいなくなったあの夏の夜以降、私は誰にも胸の内を明かさなかった。

いや…明かせなかったのかもしれない。

あの時、本当は辛いと言いたかった。

誰かに、孤独で苦しくてどうしようもないあの気持ちを聞いてほしかった。

でも…それを話せる友達はもう既に、私のもとを去っていた。

この言葉を放った者たちとは少し状況が違うかもしれないが…それでも、誰かのSOSを聞き流したくはなかった。

あの剣士を…彼を、1人にしたくなかった。

不意に、ハクは歩みを止めた。

ハクの目線の先には、あの剣士がいる。

真っ黒な鎖でがんじがらめにされ、ハクがそばにいることにも気付かずうつむいている。

「…君は、辛かったのだろう?」

「…」

剣士が顔を上げる。

そこに表情はなく、ただ目だけが、ハクがいるという事実に戸惑っていた。

なぜ、お前がここにいる、と。

「苦しくて悲しくて、寂しかったのだろう?」

「さび、しい?」

初めて、剣士の口から言葉が発せられた。

まるでノイズのような、ざらついた低い声だった。

「そうだ。なぜ自分だけ、許せない、と。時には本気でそう思ったこともあるだろう。それは別に構わない。その感情は、どんな者でも持つものだ。ただ…それは本当に、君の本心なのか?」

心の半分以上が黒く染まり、正直自分が何を言っているのかすらも、もうよく分からない。

ただ、間違ってはいない気がした。

「私に、話してみてはくれないか?君は何を思っていた?何を感じていた?どんな話でもいい。私と少しだけ、話をしよう」

ハクの声はどこまでも落ち着いていて、優しかった。

「…お前に話して、なんになる。オレの闇に飲まれそうになっているお前に、一体何ができると言うんだ」

「失礼だな。まだ完全には飲まれていない。まあ、このままだとそうなる未来も遠くなさそうだが」

「お前、ずいぶん落ち着いてるな。闇に飲まれ、死ぬことが怖くないのか」

「別に。私が闇に飲まれようとも、私の友人たちが私を倒してくれる。私が死のうとも、信頼できる部下や仲間たちが私の跡を継いでくれる。というかそもそもの話、私はよくも悪くも運が悪いんだ。よっぽどのことがない限り世界は私を殺してはくれないだろうし、私のことを見逃してもくれないだろうな」

「お前…変なヤツだな。死にたいのなら、オレがお前を殺してやろうか」

「それは遠慮しておこう。私には13才の娘がいるのだが、私がケガをしたり、無茶をして帰ってくると誰よりも怒るんだ。それはそれはもう怖くてな。1度説教が始まると軽く1時間は怒られ続けるんだぞ」

ハクはアーリアの怒った顔を思い浮かべて苦笑した。

「だから、こんなところで長いこといる訳にはいかないんだ。早く帰って無事な姿を見せてやらないと、あの子はずっと心配する。優しい子だからな」

「…お前、幸せそうだな」

剣士はポツリと呟いた。

その呟きは誰かに向けられたものではない。

羨ましがるような、感心するような、そんな切ないヒトリゴト。

「あぁ。幸せだ。私は、友人にも部下にも仲間にも恵まれた。本当に、ありがたいことだと思うよ」

「…なら、もうこっから出てけ。幸せなら、オレのそばにいるな」

剣士は吐き捨てるようにそう言い、またうつむいた。

辺りの闇が、一気に濃くなる。

そんなことは気にも止めず、ハクは言った。

「私1人では帰れないな。そんなことをすれば私がわざわざここに来た意味もないし、第一どうやってここから出ればいいのか分からない」

「…何が言いたい。何がしたい。オレへ復讐でもするつもりか?いいぜ、やれよ。今のオレは、身動き1つすらできない。焼くなり煮るなり、なんだってすればいい」

「そんなことはしない」

ハクは、剣士を堅く縛っていた鎖に触れた。

身動きがとれないほどキツく縛られていた鎖は、ハクの手に触れたとたんにバラバラになって砕けた。

「…!」

剣士が驚いて、ハクの顔を見る。

ハクの顔には、淡い微笑が浮かんでいた。

「なぜ…復讐しない…?」

目を見開く剣士に、ハクは少し呆れる。

「言っただろう。そんなことはしない、と。私が君に復讐したところで、何になる?君を傷つけてしまうだけだ。私は、そんなことを望んでいない。本当に復讐したい相手は他の者だからな。まあ、何をするにしてもまずはここから出なければ」

まだ状況が飲み込みきれていない剣士に、ハクは手を差し伸べた。

「一緒に来ないか?君の話を、私は聞きたい」

「…っホント、お前は変なヤツ…。敵のことなんて、放っておけばいいのによ。…もういい。オレの負けだ」

剣士はハクの目を見て、手を掴んだ。

その瞬間

『ごめんなさい』

『家族に会いたい』

『傷つけてしまった存在ひとに謝りたい』

『ありがとう』

ハクと剣士を取り巻いていた闇が急に消え、さっきとは正反対の言葉が一斉に辺りに響き渡った。

「…そうか。これが君の、”声”なんだな」

「知らね」

剣士はプイとそっぽを向いた。

その顔には、ぎこちない笑みが浮かんでいる。

ハクも微笑み、剣士を立たせた。

「そういえば、君の名前を聞いていなかったな。君は、なんという名前なんだ?」

「オレに名前なんてない」

「そんなこと言わずに。呼び名くらいはあったのではないか?」

「そんなこと言われたって…オレは今日生まれたようなものなんだ。名前はおろか、オレ自身がなんなのかも分かっていない」

「そうなのか…。それは少し寂しいな…」

ハクが少し落ち込んでいると、剣士は何かを思い出したように言った。

「あっ…どうしてもってんなら、あるぜ。名前」

「本当か?」

「今考えた。オレはダーク。ダークだ」

「ダーク?なぜその名に?」

「オレの記憶の中にいたんだ。ダークって呼ばれる男が。オレはこの響きが気に入った。だからオレのことを名前で呼びたきゃ、ダークって呼べ」

「分かった。ではダーク、行こう」

ハクは、ダークと共に白い光に包まれた。

目の前が真っ白になって、ゆっくりと意識が薄れていく。

あぁ、疲れた。

少しだけ…休もう…。

ハクは目を閉じ、いくらもしない内にそっと意識を手放した…。

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