第2話『決着』
詠唱を終えた手応えは、確かにあった。
だが、ディレックの手元から何かが放たれることはなく、ただ静寂が戻っただけだった。
「おいおい、魔導師の真似事か? 魔法が不得手だからこそ、お前は俺に剣術の指南を受けていたんじゃなかったのか。極限状態で狂っちまったか?」
師匠の嘲るような言葉に、周囲の黒仮面たちも下卑た笑い声をあげる。
ニックを床に転がしたまま、師匠はゆっくりとディレックに巨大な剣の切っ先を向けた。
「狂った弟子の始末は、師である俺の役目だな。なーに苦しむことはない。一瞬であの世に送ってやる」
師匠がその大剣を振り上げた、その瞬間――。
「ディレック、逃げろ!」
鋭い警告の声と共に、一本の炎を纏った矢が空気を切り裂き、師匠の眉間に迫る!
師匠はそれを無造作に剣の腹で弾くが、それは始まりの合図に過ぎなかった。
続けざまに放たれる数十本の矢が、炎の尾を引きながら嵐のように師匠の全身に降り注いだ!
ディレックが矢の放たれた先を見ると、灰色のローブを着た者たちが館内に入ってきていた。
王都内に軟禁されていたはずの、タビーダ族の男たちだった。
ディレックに駆け寄った男の顔が、揺らめく炎の光で浮かび上がる。
彼の父親であり、タビーダ族の族長だった。
「父さん!」
「ディレック、お前は我ら一族の希望だ。何があっても、必ずここから逃げろ!」
師匠は降り注いだ矢を全て弾き落とし、その身に突き刺さった数本も意に介した様子はない。
炎の渦の中心にありながら、その威圧感は揺るぎもしなかった。
「その防具、対魔障壁が施されているようだな。やはりメイル国内部に協力者がいるということか」
族長が苦々しく吐き捨てる。
「会話はおしまいだ。全員死ね!」
師匠の号令と共に、黒仮面団が一斉に襲いかかった!
「ディレック様、お逃げください!」
タビーダの男に支えられながら立ち上がったニックが叫ぶ。
「お前を置いていくわけないだろ!」
「わたしはもう足をやられています! 足手まといになるだけです!」
その問答を、戦端が開かれた轟音が掻き消した。
タビーダの男たちが放つ火球や風の刃が、黒仮面団の持つ漆黒の剣とぶつかり火花を散らす。
ニックも手負いの身で小剣を振るい、敵の攻撃を必死に捌いていた。
だが、戦況は絶望的だった。
ディレックと師匠の戦いは、もはや戦闘と呼べるものではなかった。
「らあっ!」
渾身の力で振り下ろしたディレックの剣を、師匠は鼻で笑いながら片手で受け止める。
凄まじい衝撃が腕を痺れさせ、体勢が大きく崩れた。
「遅い!」
返す刃がディレックの頬を掠め、熱い血が散る。
一撃一撃が嵐のように重く、速い。
ディレックは防御に徹するのが精一杯で、仲間たちの戦況を気にする余裕すらなかった。
その師匠が、片手間でタビーダの男たちを屠っていく。
ディレックの剣を受け流しながら放った蹴りが一人を壁に叩きつけ、振り向きざまの一閃がまた一人を血の海に沈めた。
「ぐあっ!」
「父さん!」
仲間たちが次々と崩れ落ちていく。
その光景にディレックの心に焦りと怒りが燃え盛るが、眼前の圧倒的な「死」がそれを許さない。
タビーダの男たちの数が減るにつれ、ニックたちの旗色も急速に悪くなっていく。
そして、とうとう味方は全員が床に伏し、ディレックだけが夥しい血だまりの中に立っている状況となった。
「仕上げだな」
師匠がゆっくりとディレックににじり寄る。
黒仮面たちは円形状に彼を取り囲み、逃げ場は一切ない。
ディレックの剣を持つ腕は重く、呼吸は荒い。
万策尽きた。
そう、誰もが思ったその時だった。
「なーんで術者が男なのよー!」
突然、場違いなほど明るい女の子の声が、ホールの上から響き渡った。
次の瞬間、周囲が真昼のように眩い光に包まれる。
そして、光の中心に、美少女が一糸まとわぬ姿で浮かんでいた。
「み、見ないでよー、えっち!」
その神々しくも扇情的な姿に、見上げていた黒仮面たちは一瞬にやけた表情を見せた。
だが、その直後には戸惑いの声があちこちから上がり始める。
「なんだ、見えない……」
「目、目が見えないぞ!」
それは師匠も例外ではなく、その場にいたディレック以外の男たちは全員、光によって視力を失った。
「あら、あんたもしかしてババアが好きなの?」
美少女はディレックの目の前に降りてきた。
いつのまにか、その身には衣装が纏われている。
それは真珠色の光沢を放つ、身体のラインにぴったりとフィットしたワンピース風のレオタードだった。
つるりとしたシルクのような純白の生地は、光の加減で虹色や金色にかすかに輝く。可愛らしくカットされたハートシェイプの胸元が、彼女の可憐さを際立たせていた。
その上から、まるで星屑を練り込んだかのような半透明のドレープが、右肩から左の腰へと女神のようにアシンメトリーに流れている。彼女が身じろぎするたび、布はきらきらと光の粒子を舞わせた。
正面からの可憐な印象とは裏腹に、振り返れば肩甲骨のあたりまで背中が大胆に開いており、神聖さゆえかいやらしさを感じさせない。
彼女は裸足だったが、その足の甲からふくらはぎにかけては、金色の光の蔓が巻き付いたかのようなサンダル風の装飾が施されている。
そして、時折その頭上に、不完全な「壊れた円環」のような光の輪が、ふっと浮かんでは消えるのだった。
「今だ!」
ディレックは思考を切り替え、光を失ってうろたえる黒仮面たちに向かって地を蹴った。
もはや遠慮はない。一閃、また一閃。
首、心臓、急所だけを正確に狙う冷徹な剣が、闇の中で右往左往する男たちの命を刈り取っていく。
あっという間に、黒仮面たちの死体の山が築き上げられた。
そのままの勢いで、同じく視力を失っているはずの師匠の背後を取る。
渾身の力で剣を振り下ろした!
ガギィィィン!
甲高い金属音と共に、凄まじい衝撃がディレックの腕を襲う。
「なっ……!?」
背後から狙った一撃を、師匠は振り向きざまに完璧に受け止めていた。
「目が見えなくたって、お前の殺気で分かる。俺をそこらの雑魚と一緒にすんなよ」
ディレックが何度打ち込んでも、師匠の剣はそれを軽く弾き返す。
だが、
「う、動かねえ……」
師匠はその場から一歩も動くことができなかった。
「このおっさんスケベなくせにめちゃくちゃつえーじゃん。でもね、わたしの姿を見たものは視力を奪われるだけじゃないの。動きも封じられちゃうんだよ。あはは、残念だったねー」
その時だった。
「ディレック、逃げろ!」
最後の力を振り絞った族長が、炎を纏わせた小剣を、動けない師匠の脇腹に突き立てる!
「ぐぅううっ!」
師匠が初めて苦悶のうめき声をあげた。
「ディレック様、早く!」
それは、ニックと、虫の息だった族長の最後の力を振り絞った一撃だった。
「うぉおおおおおおお!」
師匠は重力で縫い付けられたかのような足を、凄まじい雄叫びと共に強引に動かそうとする。
筋肉が盛り上がり、足元の床がミシミシと軋む。
「嘘でしょ、とんでもない馬鹿力じゃない! あんた、逃げるなら早くしないとこのおっさん、直に動き出すわよ!」
ディレックは敵に背を向けたくなかった。
父とニックを残して逃げることなど、できるはずがなかった。
彼は剣をおろした。
だが、師匠とは向き合ったままだ。
「逃げても無駄だと諦めたか。背中を見せなかった褒美に、一撃で葬ってやろう」
師匠は気合と怪力で呪縛を打ち破り、右足を一歩、前に踏み出した。
「嘘でしょ、あたしの縛りから自力で抜け出すなんて、とんでもない化け物よ、このおっさん!」
少女が叫ぶ。
「師匠とは剣でやりあって、越えたかったが……しょうがない」
ディレ-ックは静かに下を向き、その唇が、人間業とは思えぬ速さで古の呪文を紡ぎ始めた。
その直後だった。
「がぁあああああああああっ!」
師匠の足元から巨大な炎の渦が螺旋を描きながら吹き上がり、その巨体を瞬く間に飲み込んだ。
対魔障壁を持つ鎧が赤熱し、融解し、その下の肉体ごと全てを焼き尽くしていく。
断末魔の叫びもすぐに途絶え、後には人型の黒い灰だけが残った。
あっけないほどの決着だった。
「なによ……人間業じゃない高速詠唱と、高位の魔法じゃないの。どうなってんのよこの世界は」
女の子は混乱していた。
「お前は何なんだ? あのカタログに封印されていたのは召喚魔法だったということか? なぜ実体を持ったままここにいる?」
「もーう質問ばっかしないでよ! あたしの名前はネメステア。ネメアって呼んでね。あとは答えないよーだ!」
そう言ってネメアは煙のようにふっと消えた。
ディレックは父とニックのもとに駆けつける。
「よし、まだ息がある」
彼はその場に膝をつき、二人の傷口に手をかざして治癒魔法の詠唱を始めた。
『うっそ、あんた治癒魔法の心得まであんの?』
ネメアの声が、ディレックの脳内に直接響いた。
「なんだお前、俺の中に勝手に入るな」
『お前じゃない、ネメアよ!』
ディレックは必死に二人を回復させようとするが、傷が深く治癒が追いつかない。
『待って、わたしがここの回路をうまく繋げば威力が強くなるはずだよ』
ネメアの言う通りにすると、治癒魔法の輝きが格段に増し、族長とニックの傷がみるみるうちに塞がっていった。
「なるほど、使えるヤツだ」
『あんたの脳みその魔法に関する部屋にいるんだけど、とんでもない魔導師だったのね。あたしはてっきり剣士だと思ってたわよ。あたしがここの部屋を整理整頓すれば、あんたの魔法はもっと強くなるわよ』
「そいつは是非とも頼みたい」
『ふふーん、ネメアちゃんの凄さがよーやく分かったようね。でも、交換条件があるわよ』
こうして辛くも館を脱出することに成功したディレックだったが、その日のうちに王都は陥落した。
翌日、ディレックはメイル国第一王女の誘拐犯として、全土に指名手配されることとなる。
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