スペルカタログを継ぐ者 〜禁忌の魔法で、俺は全てを覆す〜

星笛霧カ

第1話『襲撃の夜』

「ディレック様、大変です!」


切羽詰まった従者の声が響いたときには、ディレックは既に寝床から出ていた。

窓枠に身を潜めながら、外の様子を窺う。


空は厚い雲に覆われ、月明かりはない。

しかし、闇に慣れたディレックの瞳には、異様な光景がはっきりと映っていた。


黒一色の仮面。

音を立てない特殊な素材で誂えられたらしい、揃いの鎧。

それらを身に纏った者たちが、まるで影のように、それでいて統率された動きで、自分たちの住まう館の敷地内へ続々と侵入してくる。


その無駄のない動き、常人離れした身のこなしは、明らかにメイルの兵のものではなかった。


「あの動き……メイルの兵ではないな」

ディレックは低く呟く。

「今の国の状況を考えれば、連中にとってはまたとない機会か。いよいよこの国も終わりかもしれん。……ニック、理由はともあれ、俺たちは巻き込まれただけだ。さっさとここから離れるぞ」


ディレックは鍵付きの引き出しから古びた書物を一冊取り出し、懐に入れた。


現在のメイル国は、奇妙な病に蝕まれていた。

魔導師だけが罹患し、一度かかれば高位の魔法が使えなくなるという謎のウイルス。

流行り始めて半年、未だに原因究明も対策も公式には発表されていない。


(いや、本当はどちらも可能なはずだ。あえて引き延ばされている……)


その実質的な指揮を執っていたのは、ディレックの実弟だった。

弟が王から寄せられる厚い信頼、それこそが、タビーダというだけで疎まれる自分たち一族が、かろうじて「保護」という名の軟禁状態のまま生き長らえている理由なのだ。


三ヶ月ほど前、久しぶりに顔を見せた弟が、ディレックにだけ密かに告げた言葉が脳裏をよぎる。


『兄さんだけに伝えておきます。ウイルスは、メイル国内部の人間、それも王宮内の誰かが意図的にばら撒いた可能性が高い。確たる証拠を掴み次第、王にご報告するつもりです。……ですが、もしもの時――いざという時は、私のことは見捨てて、どうか逃げてください』


弟の警告。

そして、この襲撃。

偶然とは考えにくい。


階段を駆け上がってくる複数の靴音。

それは隠密行動とは程遠い、むしろ威嚇するかのような大胆さだ。

その意図を読み取り、ディレックは壁に立てかけてあった愛剣――タビーダ族の多くが軽視する、しかし彼が信じる力の象徴――を手に取った。

この館で剣を扱えるのは、ディレックと従者のニックのみ。


ニックはメイル人ではない。

元はトロンガースでディレックに剣術を指南した男――師と呼んだ男――の小間使いだったが、師が帰国する際に、なぜかディレックのもとに置いていったのだ。


「ニック、扉の鍵を開けろ。脱出する」


ディレックはニックを背後にかばうように立たせ、暗闇が支配する階段の上部へと意識を集中させる。

迫りくる黒い影。一つ、二つ――。


ディレックの剣が闇を閃く。


敵はディレックの姿を捉える前に、あるいは認識する間もなく、急所を正確に貫かれ、声もなく崩れ落ちていく。


ドサリ、ドサリ、と肉体が床に落ちる鈍い音だけが、しんと静まり返った館に響いた。


危なげなく一階の玄関ホールまで降りてきた、その時だった。


「ぐっ……!」


突如、背後のニックが短い呻きと共に膝から崩れ落ちる。


「おい、ニック! どうした!」


駆け寄るが、ニックは胸を押さえ、苦痛に顔を歪めて声も出せない。

周囲に人の気配はない。矢や投擲物が飛んできた様子もない。


(魔法か?)


ディレックの脳裏をその疑念がよぎった、次の瞬間――。


肌を刺すような鋭い殺気。

それと共に、空気を切り裂く強烈な剣風がディレックを襲う!

咄嗟に剣で受け止めるが、あまりの衝撃に体勢を崩し、片膝をつかされた。


「ふん……受け止めるか。腕は鈍っていないようだな」


暗闇で姿は見えない。

だが、その声は。

嘲るような、それでいて底冷えのする響きは、ディレックにも、そして苦悶するニックにも、嫌というほど聞き覚えのあるものだった。


そしてそれは、今、この状況で最も聞きたくない声。


「し、師匠……なのか……?」


ディレックが絞り出した声に応えるように、玄関の重い扉が開かれ、たいまつを持った男たちが数人、雪崩れ込んできた。

揺らめく炎がホールを照らし出し、ディレックたちの前に立ちはだかる男の姿を浮かび上がらせる。


やはり、二人に剣術を叩き込んだ、あのトロンガースの戦士だった。

以前よりもさらに凄みを増した体躯、油断なく構えられた大剣。

その目は、かつての弟子たちを冷徹に見据えている。


「俺は無駄口は叩かねえ主義でな。再会の挨拶は抜きだ」

師匠は、まるで道端の石でも蹴るかのように言い放つ。

「……お前たちに恨みはねえ。仕事で始末しにきただけだ。死にたくなけりゃあ、殺しにかかってこい」


「仕事……? とばっちりではないと? 俺たちを、名指しで……?」


ディレックが冷静に状況を分析しようとする、その思考を遮るように、男は地を蹴った。

大剣が唸りを上げて迫る。


ディレックはまだ膝をついたまま、剣を防御の形に取れていなかった。


「ディレック様!」


その瞬間、ニックが最後の力を振り絞るように横から飛び出し、主人の前で盾となった。

小剣で師匠の大剣を受け止める。

甲高い金属音と共に火花が散る!


しかし、力量差は明らかだった。

大剣が振り下ろされるたびに、ニックの持つ華奢な小剣がきしみ、彼の腕が衝撃に震えるのが見て取れる。

一撃、また一撃と受け止めるたびに、ニックは後退り、その足元はふらついている。


(ニック……!)


ディレックは膝をついたまま、懐から書物を取り出しいちかばちかの手段を講じていた。

ニックの実力は自分が一番よく知っている。師匠の剣技も。

このままでは、あと数合も持たないだろう。

ニックの剣が折れるか、彼自身が致命傷を受けるか。

周囲を取り囲む男たちも、同じ結論に至っているはずだ。


頼む、もう少し時間をくれ。


「……お前の主は、ずいぶんと冷たいご身分らしいな。可愛い従者が死にかけてるってのに、読書だとよ」


師匠は、なおも余裕を見せつけ、大剣を振るいながら嘲りの言葉を投げかける。

ニックには、それに言い返すだけの余裕はない。


(ニックは時間を稼いでいる。俺の秘策に感づいたんだろうか)


「ニックは捨て駒じゃない」


唇の端に、わずかな笑みすら浮かべながら立ち上がった。


「なにが出るか分からねえが、とびっきりのやつを頼むぜ、俺達を助けやがれえええ」


ディレックの秘詠唱に、その場にいた全員が衝撃を受けることになる。

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