第7話 逃げたくない
昼下がりの大学の教室。講義が終わったあとも数人が残ってノートをまとめている中、翔は一番後ろの席に座ったまま、窓の外をぼんやりと眺めていた。
グラウンドに響く声も、ボールの感触も、まだ鮮明に残っている。
でも、それと同じくらい、あの一言も残っていた。
「お前がいてくれたらーーーー」
ただのつぶやき。なのに、翔の中では重く響いた。
(また俺が投げて、失敗したら……)
そのとき、隣の席にずいっと誰かが座ってきた。
「なーに考え込んでんの、翔くん」
見れば、駿だった。相変わらず気の抜けた笑顔で、ペットボトルのコーヒーを片手に振っている。
「……何でもないよ」
「うそつけ。お前、何でも顔に出るからな。つか、また“背負い癖”出てんじゃね?柔道部にでもなるつもりか?」
「……」
翔は黙ったまま、窓の外から視線をそらす。
駿がため息混じりに言った。
「翔、お前、野球のときもそうだったよな。俺たちはお前を恨んじゃいないのに、自分ばっか責めてたろ」
「……でも、あのとき、俺が……」
「だからこそさ。あれは“お前だけの責任”じゃない。チームってのはな、一人で抱え込むもんじゃないんだよ」
ふと、後ろのドアが開いて、聞き慣れた靴音が近づいてくる。
「……また悩んでるの? 何回目?」
朝比奈灯だった。サラッとした髪を揺らしながら、二人の前で立ち止まる。
「朝比奈……」
「前にも言ったよね? 悩むくらいなら、やらない方がいいって」
ズバリ言われて、翔は少したじろいだ。
「……それ、君は経験あるってこと?」
その問いに、灯の表情が一瞬揺れた。
「……あるよ。私も一度、逃げた」
教室に小さな沈黙が落ちた。
「高校のとき、演劇部で主役を任された。でも……“あなたしかいない”って言われるたび、プレッシャーが重くて。結局、本番の一ヶ月前に降りた。『自信がないから』って。代役が入った舞台は成功したけど……未だにその台本、読めないまま」
言葉を絞り出すように話す灯を、翔はじっと見つめていた。
そんな彼女に、翔は静かに言った。
「でも、今日こうしてここで、その話を俺にしてくれた。……それって、すごいことだと思うよ」
灯が驚いたように顔を上げる。
「俺だったら、誰にも言えなかったかもしれない。逃げたことを“ちゃんと話せる”って、それだけでも……ちゃんと向き合ってる証拠だよ」
教室の空気がふっとやわらぐ。
駿がにやりと笑った。
「さっすが翔。やっぱ、誰かの背中を押すときは強ぇよな」
その言葉に、翔ははっとした。
(今、俺が灯にかけた言葉……あの日、駿が俺に言ってくれた言葉と、同じだ)
“信じてるって感じだった”
“チームってのは、一人で抱え込むもんじゃない”
あの日、グラウンドで駿や氷川先輩が見せてくれた背中。
白石先輩が、何も言わずにくれた笑顔。
今なら、わかる気がした。
ふぅと少し息を吐くと翔は言った。
「……俺、もう少しだけ投げてみるよ」
「え?」
灯は驚いた表情で翔を見つめる。
翔はそんな灯りをまっすぐに見て言う。
「逃げたくないって思えた。もう一回、自分がどこまでやれるか、試してみたい」
「……ふぅん」
灯はそっけなく言って、でも口元だけはほんの少し緩めた。
駿が立ち上がる。
「んじゃあさ、次の練習、俺も出るわ。で、俺らのアツいアツいホットラインを魅せつけてやろうぜ、翔!」
「は? お前、まだ入部届け出してないだろ?」
「そっちもだろ? まあ、まずは気持ちからだって」
翔は苦笑しながら立ち上がる。
背負いすぎず、でも逃げない。
今なら、そう思える。
灯が少し離れた位置から、ぽつりと呟いた。
「……悪くない顔してるじゃん、翔くん」
その言葉に、翔はふと振り返る。
「ありがと。朝比奈のちゃんと向き合ってる姿みて……俺、ちょっと救われた」
灯は何も言わなかったけれど、その視線はどこか照れくさそうで、優しかった。
翔の胸の奥に、小さな“決意”が火を灯す。
一人で抱えずに、みんなと――前へ進むために。
この熱を、今度こそ。
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