えくぼヶ原 —春の日に笑う子—

 2つ目の手紙の想いを読み解き、愛娘の記憶を甦らせるために動き出した風車は、その日ずっと休むことはなかった。しかし本来は自然の風によって回転する装置なので、翌日にはいつも通りに気の向くままに羽を回していた。

 そんな風車たちに囲まれている翔子の実家である春日家に、昨日ボタンをくれた巫女が早朝から訪問していた。父親との関係が気になった翔子が、無理をいって呼んだのだ。

 同じく気になっていた一希も同席することにした。

「「し、司祭の娘さん!?」」

 2人のハモった声に、巫女は驚いて肩を跳ねさせる。その様子を見て、2人揃って「あ、ごめんなさい」と諭す。

「いえいえ……ふふ、仲良いんですね、お2人」

「わ、私たちのことはいいんですけど……ほんとに、あの司祭の娘さんなんですか?」

「はい。忠子ただこと申します。お2人と同じ22歳ですよ」

 ペコリと頭を下げる。姿勢のきれいさは、普段から巫女の仕事をしている片鱗が現れていた。

「司祭に娘さんがいたなんて知らなかった。まして同級生だなんて」

「中学はこっちじゃなくて、教会の方にある小さい学校だったので」

 翔子は中学卒業と同時にこの町を出たので、残念ながら彼女と面識はなかった。一希も高校は遠方に電車で通っていたので、交流するチャンスは無かったようだ。

 しかし今は、自分たちとの関わりより大事なことがある。

「やっぱり、父とは司祭を通して知り合ったんですか?」

「ええ。私もあなたと同じで、家出娘ですよ。もっとも、高校卒業のときに無理言って一人暮らしを始めただけですが」

 同じ、と言われた翔子は、少し耳を赤くする。その様子を一希は茶化したかったが、その隙もなく忠子が話を続ける。

「そのとき神社での就職も決めていたので、こっちに引っ越したんですけど、生活が安定するまでお父様がサポートしてくださったんです」

「お、お父さんが……」

「きっと、私の父が心配性だったので、親友だったあなたのお父様に相談したんでしょうけどね」

 なるほど、とその繋がりに納得する。しかし、まだ疑問は残っている。

「じゃ、昨日のボタンは……?」

「あれは、先々週あたりに神社へいらっしゃって、私に預けたんです。もしお2人が尋ねてきたら、渡してほしいといわれて」

 父が迷惑かけてすいません、と頭を下げると、忠子も「いえいえ、いっぱいお世話になりましたから……」と同じく頭を下げる。

 一希はその様子を見ながら、先々週あたりに雅治が何度か出かけていた理由が分かり、満足していた。

 昨日までは教会へ手紙を届けたのかと思っていたが、10分程度で帰ってくるときもあり、その目的が気になっていた。それが、神社に行って忠子にボタンを託していたのだとしたら、合点がいく。

 それと同時に、やはり納得できないことが残っており、一希が口を開く。

「す、すいません。やっぱり、師匠がなぜあんな分かりにくい手紙にしたのか、皆目見当がつかなくて。心当たりはありませんか?」

「そうですね……お話を聞く限りでは、思い出巡りをしてほしかったんじゃないですか?」

「思い出巡り、ですか?」

「はい。最初の閏坂や教会はお母様のこと、そして神社ではあなた自身のことについて」

 確かに、閏坂と教会の噂話は、間接的だが母の哀が関与していた。きっと鐘の音を聴かせたかった雅治は、鐘の舌を設置してもらうには閏坂の真実を明らかにする必要があると考え、あんな手紙を寄越したのかもしれない。

 白夜神社からの景色も、普通に見ることは不可能なので、手紙の謎解きに集中することで、恐れることなく神社に入れるようにしたのかも。

 そう考えると、父親の策士っぷりに感嘆の声が漏れる。

「ま、まんまと聖地巡礼させられたのね……」

「悪いことじゃないんですから。そうだ、せっかくならお2人で改めて町を探訪してみては?翔子さんは久しぶりに町へ帰ってきたんでしょ?」

「え?まぁ、そうですけど……」

「私はこれからお仕事があるので、一希さんとお2人で、ね?」

 そう言ってニコニコ微笑む同級生の真意を、翔子と一希は見抜けなかった。




※※※




 町探検、といっても2人だけの思い出の場所なんてなかった。悩んだ結果、母校である中学校に顔を出すことにした。幸いにも今は春休みで、学校には数人の教職員と、グラウンドから声を響かせる野球部しかいなかった。

 奇跡的に当時担任だった先生がいたため、挨拶をして教室へ案内してもらった。そこは7年前と変わらず3年2組の札がかかっている。

「懐かしい。たしか、ここが私の席で」

「こっちが俺だな」

 翔子は教壇から見て一番奥、つまり教室で最も後ろの列で、窓側の座席に座る。少し首を傾けると、元気な野球少年たちが見える。

 一希は翔子の2つ前の席で、5列ある座席の中央だった。椅子に座ったまま振り返り、翔子の方を見る。

大雅たいがって覚えてるか?ほら、ちょうどここの座席だった」

 そう言って一希は、翔子との間にある机に手を置く。

「アイツ、高校は一緒だったんだけど、大学は兵庫に行ったんだよ」

「兵庫?宝塚でも好きだったの?」

「惜しいな。宝塚が好きだったのはアイツじゃなくて、高校でできたアイツの彼女の方」

「ま、まさか、彼女が兵庫の大学に行くから、ついて行ったの!?」

 驚いて立ち上がる翔子に、一希は片頬を持ち上げてジト目で頷く。

「意外だよな。アイツ、俺らのこと散々からかってたくせに。結局は自分が一番色目使って」

「あー、そんなこともあったね」

 翔子が苦笑いで思い出すのは、同級生の男子たちが一希のことをからかう場面。どうやら、彼は翔子のことが好きだと噂されていたようだ。

「……やっぱアレ、一希くんじゃないんだね」

 2人が思い出すのは、少し厄介だった出来事。

 ある日、登校した翔子は、自分の机の上に文字が書かれていることに気付いた。たった4文字、「好きです」と。

「きっと男子の誰かがイタズラで書いて、君のせいにして馬鹿にしようとしてたんだよね」

「……そうだね」

 翔子の机に視線を下げた一希は、短く返事するしかできなかった。

 何か含みのありそうな表情に言及しようとしたとき、ガラガラと教室のドアがスライドし、先生が顔を出す。

「おーい、そろそろ閉めるぞ」

「あ、はい」

 鍵を指先でカチャカチャと回しながら、2人を催促する。廊下に出ると、ふと思い出したことがあり、翔子は施錠中の先生に声をかける。

「すいません、もう少しだけ校内を散歩しても構いませんか?」


 3階まで上がり、廊下の突き当りで窓を開ける。少し身を乗り出すように顔を出すと、そこには広いプールがあった。

「おい、危ないぞ」

 確かに、胸元あたりまで外に身を出す翔子は、少し危険だった。思わず、後ろから左腕を掴むが、翔子は気にする様子はなかった。

「ねぇ、お父さんもこの中学の卒業生なんだよ」

「師匠が?そうなんだ」

「うん。一度聞いたことがあるんだ。よく友人と3人で夜に学校に忍び込んで遊んだって」

 堅物な印象のある雅治が、学校に不法侵入して遊ぶ、なんてヤンチャな様子は全く想像できなかった。師匠の意外な一面を知り、思わずクスクスと笑う。

「トイレで心霊現象ごっこをしたり、黒板で絵しりとりをしたり、プールにプロジェクターで古い映画を上映したり、まぁ迷惑にならない程度に遊んでたらしいよ」

 一希と同じように、翔子もクスクスと笑う。いつの間にか身を乗り出すのをやめ、廊下で仲良く笑いあっていた。

 窓を閉め、職員室へ向かいながら、翔子は父親のことを考えていた。

「7年前、家を出たときは『お父さんは私のこと何も分かってくれない』って思ってたけど……何も分かっていないのは、私の方だった。お父さんのこともお母さんのことも、ましてや昔の私のことも、何も分かっていない」

 この3日間で、思い出したことがいっぱいあった。そのどれも、忘れてはならない、大事なことばかり。

「お父さんと、もっと話せば良かったなぁ」

 少し上を見上げ、瞳を潤わせながら呟く。中学のときより、少し近く感じる天井を見つめながら。

 ふと、翔子は隣から人の気配が消えたのに気付いた。振り返ると、少し後ろで一希は足を止めていた。

「どうしたの?」

 少し俯いていた一希は、意を決したように顔を上げ、翔子と目を合わせる。

「これから、色々と思い出していこうよ。お袋さんのことも、親父さんのことも、お前自身のことも」

「……でも」

「2人ともこの世にはいないけど、2人がいた証ならいっぱいある。この2日間、それを痛いくらい実感しただろ?」

 閏坂、教会、白夜神社、風車、学校……そして名もなき町中にも、噂や記憶の中に両親のことが混ざっていた。

 本当に些細な、ありふれたものばかり。でも、そんな普遍的な思い出が、翔子にはかけがえのないものだった。

「何より、翔子のことは、俺が一番、知りたいことだらけなんだ」

「え……」

 離れた位置でも、目の前にいる同級生の耳が赤くなっているのが見えた。対称に、自分の耳の色がどうなっているか、もちろん見えるはずもないが、それは体温が教えてくれた。

「あの、机に『好きです』の文字を書いたのは俺だよ。誰にもバレず、翔子にだけ気持ちを伝えたかったから。ま、残念ながら野郎どもに見つかったけど……」

 右手を頭に乗せ、ハハハ……と乾いた笑いを零す。もっとも、声も口元も笑っているが、目は笑っていない。

 動揺が隠せないまま、一希は再び俯いた。

「7年前、まっすぐ気持ちを伝えられなかった。町を出ていく翔子のことを、引き留められなかった。そのことに後悔しかないよ。だから、もう後悔しないよう、ここで気持ちをハッキリさせます」

 無意識に出た敬語は、彼の溢れ出る緊張感を表現していた。目も泳いでおり、視点が定まらない。声も震えているような気がして、不安でいっぱいだった。

 それでも、決意だけは揺るがなかった。

 視線を持ち上げ、目の前にいる女性の目を見つめる。言葉は思ったよりすぐに出てきた。

 伝える言葉は、7年前と同じだから。



「好きです」



 翔子の胸中には、言語化するのが困難な感情が渦巻いていた。

 驚きと喜びをかき混ぜ、砂糖で甘く味付けして飲み干したような気持ち。

 とてもとても嬉しいのに、言葉が出てこずに黙ってしまう。

「……あ、まぁ、返事は今すぐってわけじゃないから……その……」

 その様子を見て、一希も同様して歯切れの悪い言葉を紡ぐが、徐々に失速してしまう。

 気まずい沈黙の中、その静寂を破るように翔子のスマホが鳴り響く。

 驚いて2人で肩を跳ねさせた直後、真ん丸とした目が交わり、思わずふっと吹き出してしまう。

 小さな笑いが途切れぬままスマホを表示すると、見知らぬ番号からの電話だった。

「また、この番号……」

「また、って?」

「多分間違い電話なんだけど、一昨日から合計4件も不在着信が入ってたんだよ」

 スマホ画面に表示された画面を一希に見せると、その番号を見て一希は眉をひそめる。

「……どっかで見たことある気がする」

「え?」

 うーん、と唸るが、残念ながら出てこない。そんな風に悩んでいるうちに、着信は切れてしまった。

 再び居心地の悪い沈黙が2人を襲う。

「か、帰ろっか?」

「そ、そうだな……」

 初対面のようなぎこちない表情で、翔子が提案する。

 それに対し、初対面のようなぎこちない表情で、一希が返事した。




※※※




 家についた2人は、昼食を済ませてから徐に昔のアルバムや手紙を取り出し、机に広げていた。中身は、雅治と哀、そして途中から雅治と翔子の写真が占めていた、

 適当にアルバムをめくっては、翔子が「ね、これ見て」と一希に見せ、一緒に笑う。逆に一希も翔子に写真を見せ、意外な父の姿を見て「えーっ!」と驚嘆の叫びを響かせる。

 気が付けば晩ご飯の時間になり、急いで片付けつつ食事の準備をする。食後も床にアルバムを広げ、2人で亡き夫婦の思い出を見返す。

 時には夫婦とは別の男性が入っているが、その顔立ちは明らかに司祭のものだった。当然、自分たちの知る人物よりずっと若いが、笑ったときの口元は今の司祭と遜色ない。

 初恋橋の欄干で、夕日を背後にピースをする雅治と哀。その写真を見て思わず「初恋だったのかな」と翔子が口にする。一瞬固まった一希だったが、すぐに「そうかもね」と返事する。

 そんな風に思い出にふけっていると、1枚の写真がヒラリとアルバムから落ちた。拾うと、その裏面に何やら数字が書いてあった。どこかで見たような、10桁の数字が。

「これって……さっきの間違い電話の……」

 スマホを取り出し履歴を見ると、写真の裏に書かれた数字と一致した。

 写真は雅治が自撮りしたかのような構図で、哀がその背後でガラケーをもっていた。

 その意味がよく分からなかったが、1つだけ確信したことがあった。

「この番号は、お母さんの電話番号だ……」

 両親の写った写真の背後に書いてあった以上、この番号は2人のうちどちらかのものに違いない。ただ父の番号は電話帳に登録されているので、消去法で母親の電話番号となる。

 すると問題は、誰が母の携帯電話からかけているのか。

 ふと、一希はスマホに表示された合計5件の履歴を見た。

 一昨日と昨日に2件づつ、そして今日の昼に1件。

「なぁ、この不在着信、全部同じ時間じゃないか?」

 翔子が改めて履歴を見ると、確かにすべての着信が午前6時か午後6時だった。

 つまり、今日も午後6時にかかってくる可能性が高い。しかも、ちょうど6時に。

 時計を見ると、現在の時刻は午後5時59分————と思った瞬間、6時00分に切り替わった。奇跡的な偶然に驚いた瞬間、スマホが鳴り、さらにビックリする。

「で、出るよ……」

 通話ボタンを押し、スピーカーモードに切り替えると、ザザッとノイズのような音が聞こえてから、男性の声が聞こえた。

『——……あ、あー。聞こえるかな、翔子』

 その声は、7年前に聞いた、父親のものだった。

『この番号は、お母さんの携帯電話の番号だ。機械に詳しい友人に頼んで、自動で録音を発信できるよう設定してもらったんだ。本当は自分のスマホでやればよかったんだけど、なんとなく、お母さんも一緒に聞いてくれるかなって思って』

 照れくさそうに話す父親の表情が脳裏に浮かび、思わず小さく吹き出してしまう。

 その様子を見ていた一希は、スマホのスピーカーモードを切り、翔子の耳にスマホを近づけた。

「え……」

「これは、親父さんとお袋さんからお前へのメッセージだ。俺は聞いちゃダメだよ」

 そう言ってスマホを翔子に押し付け、一希は食卓の方へ歩いていった。夕飯の食器を片付ける彼の背中を見ながら、耳には父親の言葉が届いていた。


『きっと、この電話に出るころには、手紙のことを見抜いて、鐘を鳴らしてくれたかな。迷惑かけて、すまなかった』

 思わず「ホントだよ」とぼやきつつ、最後のワガママだと許してやることにした。

『哀は…お母さんは、おじいちゃんの噂が原因で、かわいそうな子だとイメージされていたんだ。実際、おじいちゃんは不遇な人だった。けど、それとお母さんは無関係だった。そうだろ?』

 祖父は可哀そうな使用人として噂され、しかも彼を守っていた番頭も悪い印象を持たれていた。そして確かにそれらは、母とは無関係だった。

 しかし、父はそれを「閏坂の呪い」と称していた。きっと、母はその噂話が原因で、妙な扱いを受けていたのだろう。

『噂話ってのは広がれば止めることも、変えることも困難だ。だからせめて、真実を知る人たちは、その人たちのことを正しく受け入れてほしい。翔子には、真実を知り、受け入れてほしかったんだ』

「お父さん……」

『それと、もう1つ……翔子のことで、伝えなきゃいけないことがある。その素敵な名前の由来だ』

 自分の名前の由来なんて聞いたことがなかった。

 いつの間にか、父の電話越しの言葉に、すべての意識を傾けていた。




 お母さんは、例の噂が原因で、おばあちゃんに「可哀そうな子」と憐憫を持たれて「哀」と名付けられた。その事実を振り切りたかったお母さんは、生まれてくる子に「この『えくぼヶ原』の歴史にふさわしい、笑顔いっぱいの子」という願いを込めて『笑子しょうこ』と名付けたかったんだ。ただ画数のこととかを考慮して、最終的に今の『翔子』に決めたんだけどな。


 7年前、お前が家を出ていくと言ったとき、俺は猛反対した。もちろん、東京でやっていけるのか心配したのもあったが……本音を言えば、やっぱり翔子の笑顔が見ていたかったんだ。だから最後は、翔子の選択で翔子が笑っていられるなら、それでいいかと思った。けどやっぱ、死ぬ前にもう一度会いたかったなぁ。


 きっとこれからも、たくさんの選択と決断が待っていると思う。後悔することも山のようにあると思う。でも、大事なのは「自分がどう思うか」だけ。俺も含め、他人の言葉は参考程度で、自分の意思を貫いてほしい。


 だって、みんな簡単に間違った噂話で盛り上がるんだから。誰かが命を賭した物語も、伝え方次第で笑い話になる。まして、いつか誰かに泣いてほしいなんて、おこがましいんだろうな。だからせめて、自分だけはその人生を認め、肯定できるように生きてほしい。翔子の物語は、翔子だけのものだから。


 ただ、もしそのとき、隣で一緒に肯定してくれて、一緒に泣いてくれて、一緒に笑ってくれる人がいるなら、今度は翔子がその人や周囲の人を、正しく肯定してあげてほしい。お父さんの願いは、それだけだ。


 お父さんとお母さんのところに来てくれて、ありがとう。

 これからは、虹の向こうで翔子の物語を、2人で見守ってるよ。




 ツーツー、と右耳を無機質な音が支配する。

 その音が遠ざかるのを感じながら、翔子はスマホを胸元に持ってくる。

 画面に表示された『通話時間 3:47』の文字の上に、いくつものしずくが落下し、細かい水滴となって跳ね散った。紺色のスカートにも大小さまざまな丸いシミが生まれる。

「お父さんっ……お母さんっ……!」

 嗚咽を漏らしながら、何度も2人のことを呼び続ける。

 届かないはずの声は、翔子の周りで穏やかに霧散していた。



 様子が落ち着くまで、一希が彼女の背中をさすって見守っていた。呼吸が安定したところで、気分転換に2人で街を散歩することにした。時刻は6時半———この地域では、そろそろ日没の時間だ。

 オレンジ色に染まる世界を遠目に、目的もなくフラフラと歩いていた。

 少なくとも、翔子には目的はなかった。しかし一希は無意識に、ある目的地へ向かっていた。

 30分ほど他愛ない会話をしながら歩いていると、いつの間にか初恋橋に着いていた。

 一希にとって初恋橋は、初恋の相手に、想いを伝える勇気をくれる場所だったから。もっとも、『好き』とは伝えたが、初恋であることまでは伝わっていないようだった。

 橋に入る直前、閏坂の方を見上げると、夕焼けを反射するように色づく教会が小さく輝いていた。それを見つめていると、突然翔子のスマホが鳴った。画面には『着信:司祭』と表示されている。

「も、もしもし?」

『お、翔子ちゃん。ついさっき、鐘の舌を取り付けたよ。これから鐘を鳴らすから、よーく聴いていてね!じゃ』

「え?ちょ」

 翔子の返事を聴くことなく、プツリと電話が切れる。呆然とした翔子は、ゆっくり一希の方を見る。

「……教会の鐘の舌、ついさっき取り付けたって」

「……は?」

 しかし、2人にはその言葉が受け入れられなかった。

 なぜなら昨日、この場所で2人は、鐘の音を聴いていた。ゴーン、ゴーン、と軽い音が響いていたはず。

 しかし、司祭が嘘をく理由もない。

 訳が分からなくなった2人はしばらく見つめてから、同時に1通目の手紙を思い出し、「「あっ!!」」という声が重なる。

「お父さんの『お母さんにもう一度、教会の鐘の音を聴かせたい』って言葉……!」

 哀が生きているころ、鐘の音が鳴ることはあり得なかった。しかし、雅治の書き方だと、まるで一度は聞いたことがあるような……。

「町の人の中にもごく僅かに、鳴らないはずの鐘の音を聴いたことがある人がいたはず……」

「じゃあ、私たちが昨日聴いた鐘の音も……」

 口元に手を当て、再び翔子は涙を流す。その顔を見て、一希も目元が熱くなるのを感じていた。

 翔子は、母と同じ奇跡に巡り合えたことに。一希は、大好きな人と奇跡の瞬間を共有できたことに、喜びがあふれてしまった。

 涙を流しつつ、笑顔を絶やさない翔子は、楽しそうに橋を渡り始めた。置いて行かれないように、一希も足取りを重ねる。

 そして2人は橋の中央、オルガン岬から出航する船が一番見やすい位置で、欄干に両肘を置いて地平線に沈む夕日を見つめる。その背後で、教会の鐘が優しく鳴り響く。昨日と同じような、どこか違うような、人々に祝福を降り注ぐ音色が、町に広がっていた。



「あのさ、今朝の返事してなかったよね」



 笑顔いっぱいになることを願って、生まれてきた少女が。



「私も、初恋だったんだよ。両想いだね」



 夕日の沈むえくぼヶ原で、最愛の祝福に包まれる。

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えくぼヶ原飄夢譚 紅(くれない) @tsujitaiki

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