1969/10/22 (晴天)
一、二、三、四から始まった云母の中国語の勉強は、ちょうど三ヶ月経った頃に劇的な上達を見せた。云母は何の前触れもなく、いきなり中国語で会話ができるようになったのだ。
「大哥,你回来了。洗澡水烧开了(お帰りなさい。お風呂が沸いていますよ)」
出張でアジトを留守にしていた大哥は、しばらく状況を飲み込めずにポカンとしていた。が、やがて大きな声で笑い出した。
「すごいな、お前! もう中国語を喋れるようになったのか!」
「はい、弟弟さんに教えて頂きました」
大哥は云母の頭をくしゃっと撫でる。純粋に中国語仲間が増えたのが嬉しいらしい。
「アイツ、もう遜色なく会話できるんじゃないか?」
「信じたくはないですけど……。人間で言うならば、『天才』ってところでしょうか」
僕の話を聞いて、大哥は満足そうに頷いた。そして荷物から紙袋を取り出すと、土産の大盤振る舞いを始めた。
「これは何ですか?」
「鲜肉月饼。美味いから食ってみろ」
「ありがとうございます、早速頂きます」
云母は大哥に気に入られて、すっかりこの場に溶け込んでいる。僕はそれを見て、何だか複雑な気持ちになった。
「おい、弟弟。蜂蜜紅茶を入れてくれないか」
大哥は紅茶に目がない。中でもとびっきり甘いのが好きで、そこだけはロシア人と意気投合している(ロシア人は紅茶にジャムやら果実酒やらを入れて飲むと聞いた。ホントかどうか知らないけど)。僕は人数分の紅茶と、どうせ云母も飲みたがるだろうから、棚を漁ってストローを探した。
その時、一階で電話が鳴った。あいにく店番がバタついていて、数回コールを繰り返す。仕方がないので、僕が出ることにした。
「はい、东方饭店です」
「すまんが、箸のつけ忘れだ」
聞き覚えのある声に、お馴染みの言い回し。通信が傍受されないように、僕はすぐに回線を切り替えた。
「通訳の坊主か。どうだ、あの宇宙人の様子は」
電話口のパカーンは、随分と機嫌が良い。僕は言葉を選びつつ、こう返した。
「正直、気持ちが悪いです。見た目は人間なのに、中身はどこかズレていて」
「そうか。地球外生命体というのは、口から出まかせではないようだな」
パカーンの後ろから、訛りの強いロシア語が聞こえてくる。東欧でバカンスでもしているのだろうか。
「で、早速で悪いんだが、次の合同会議で宇宙人を引き取る事になった」
その言葉を聞いた瞬間、僕の心臓が少しだけ飛び跳ねた。
「キューバの連中に接触したいんだが、あそこはアメリカが目を付けていてな。そこで、アイツを使おうと思っている」
まぁいわゆる賄賂みたいなもんだ。パカーンは何てことない風でそう続ける。
「お前のボスにも、よろしく伝えておけ」
そこで電話は切れた。ツーツーと無機質な音が響く。
「弟弟さん?」
突然話し掛けられて、思わずうわっと声が出た。いつの間にか、云母が僕の背後に立っていたのだ。
「だから、一階に上がってこないでって言ったでしょ!」
「すみません。私も何か、お手伝いしようと思いまして」
全く悪気のない瞳が、僕の顔を覗き込む。
「物が持てないのに、何してくれるのさ」
「ああ、それもそうですね」
何なんだよ、もう。調子が狂うな。僕は乱暴に受話器を置いた。
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