悔恨

 ルイス・レオンは英雄だった。

 子供の頃から彼は敗けを知らなかった。十歳を向かえる頃には、身長は170センチを越え、その力は大人ですら敵わぬほどだった。

 必然的に彼は軍人になった。そして、まもなく戦争が始まった。

 南北戦争の狂騒のただなか。前線の血と泥にまみれた歩兵部隊のなかで、ルイスは獣のように戦場を駆け抜けた。弾雨の中を突き進み、味方が怯む銃火線を一人で切り裂く。突撃命令のない場所に自ら火を灯し、敵の陣を崩壊させた。

 

 彼の胸にはいつしか、獅子の紋章が彫られた金の勲章――獅子勲章が輝いていた。英雄の証だ。

 彼は勇猛で、強靭で、何より――恐れを知らない。


 だがある日、彼は地図に載らぬ小さな村を襲う命令を受けた。いや、正確には命令ではなかった。

 軍上層部が黙認する“作法”のひとつ。

 戦地における娯楽と浄化。

 村を襲い、物資を奪い、女を蹂躙し、血でストレスを洗い流す。


 あの日も、そうなるはずだった。


 だが、その村には――銀の悪魔がいたのだ。


 銀の悪魔。


 その名は、夜営の焚き火のそばでささやかれた迷信であり、死神のように語り継がれる噂だった。

 姿を見た者は少ない。

 だが語られる。

 月光の下、黒い炎のように踊る影が現れると。

 銀の銃、東洋の刀、風のような脚、雷のような腕。

 そして何より、人の心を見透かす冷たい目。

 銃を抜くより早く、死が訪れる。


 その夜、空は晴れていた。雲ひとつない月夜。星が降るように煌めき、村は静まり返っていた。


 「進め」


 ライオンの声が響いた。低く、乾いた命令。兵たちは一斉に動き出す。

 全員が彼に従っていた。従うことしか、許されていなかった。

 獣のような眼光、鋼のような体躯、血の匂いを纏った英雄。

 ライオンは誰よりも、人を黙らせる恐怖を知っていた。


 だが――その夜の村には、確かに異質な空気が漂っていた。


 地面には新しい煙草の吸殻。犬の気配はあるのに、吠えない。

 窓には明かりがなく、しかし消されたばかりのような匂いが漂っている。



 「……待て」

 そう言いかけた、その刹那だった。


 パン!


 乾いた発砲音が、夜の静寂を引き裂いた。


 斥候の一人が喉を押さえて倒れる。血が指の隙間から泡立ちながら噴き出す。

 その瞬間、空気が引き裂かれたように連続する発砲音が響いた。


 パン!パン!パン!


 兵たちは混乱し、銃を構える間もなく倒れていく。

 左にいた若い兵士が目を剥いて前のめりに崩れる。頭蓋に開いた小さな穴が、赤黒い花のように広がる。

 その隣の男が反応して撃とうとするが、引き金を引く前に眉間を撃ち抜かれていた。


 「何者だっ!」


 ライオンが怒声を上げると、闇の奥から何かが現れた。


 月光を背に、一つの影が浮かび上がる。


 黒い外套が風にたなびき、銀の髪が月明かりに染まって鈍く光る。

 右手にはスナイドル銃。長身に似合わぬ静謐な構え。

 左腰にぶら下がる東洋の刀は、歩くたびに鞘の金具が微かに鳴った。


 その足取りは静かで、ゆっくりとしているのに、兵士たちは一様に凍りついていた。

 まるで死が歩いてくるようだった。


 「射てぇッ!」


 兵士たちが一斉に引き金を引いた。


 銃声が炸裂する。火花が走る。

 乾いた硝煙の匂いが風に乗って立ち込めた。


 銀の悪魔に確かに銃弾は命中していた。しかし、奴は止まらなかった。


 一瞬の足運び、黒い外套が空中にひるがえる。

 右にステップしながら、スナイドルの銃口をわずかに傾け――


 パン!


 左端の兵士の顔が砕ける。


 パン!


 隣の兵士の胸に小さな穴が空いたかと思うと、背中から破裂したように血が噴き出した。


 「……ッ、下がれ! 下がって布陣を――!」


 指揮官格の兵士が叫ぶが、その額に弾丸が突き刺さり、言葉の最後は喉の泡と血に溶けて消えた。


 「貴様……何者だッ!」


 ライオンが吠え、腰のホルスターから素早くコルトを抜いた。

 その動作は流麗かつ電光石火。英雄の名に恥じぬ速度だった。


 だが――銀の悪魔の速さは、それを超えていた。


 ライオンが狙いを定めるその一瞬前。

 銀の悪魔は膝を折り、地を滑るように距離を詰めた。


 至近距離。


 火花のようなタイミングで互いに撃った。


 ライオンの銃弾は銀の悪魔の胸に当たった。

 そして銀の悪魔の弾もまた、ライオンの胸を正確に抉った。


 「ぐ……っ」


 血が噴き出す。身体がよろめく。ライオンの発達した筋肉が銃弾を受け止めていた。

 それでもライオンは膝をつかず、もう一発撃とうとした。


 ――その時、銀の悪魔は銃を捨てた。


 静かに、だが確実な動きで刀の柄に手をかける。

 鞘から抜かれた東洋の刃が、月光を受けて青白く輝いた。


 「ッざけんなああッ!」


 ライオンが吼え、拳銃を構え直す。だが遅い。


 銀の悪魔の身体が消えた。


 いや、正確には見えない速さで接近していた。


 残った兵たちが一斉に叫び、撃つ。だが斬撃の軌跡が風を裂き、先頭の兵士の喉を裂いた。

 その血が、銀の悪魔の顔に飛び散る――それでも彼は一度も瞬きしなかった。


 刀が、正確に、計算され尽くした角度で振るわれるたびに、誰かが倒れ、絶命する。


 「ひ、引けッ、後退し――」


 命令の途中で、兵士の身体が真っ二つに裂けた。


 叫び声。足音。肉の裂ける音。銃声。

 地獄絵図の中、ただ一人、銀の悪魔は無言だった。


 そして――ライオンの膝が、ついに落ちた。


 目の前が滲む。煙と血と、何より自分の無力が視界を曇らせる。


 立てない。


 英雄と讃えられたこの脚が、まるで鉛のように重い。

 振り上げた腕が震える。恐怖ではない。

 敗北の自覚が、全身を呪縛していた。


 その夜を境に、ルイス・レオンは戦場を去った。

 英雄は死んだ。


 そして――ライオンが生まれた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る