休息
「ねぇ、何でサッカースタジアムに連れてこられなきゃいけないんですか。」
エリカが不満げに眉をひそめる。乱れた髪をかきあげながら、怒った猫のような目つきで俺を睨んだ。全く、うるさい奴だ。
「何処でも着いてくるって言ったじゃないか。」
「いや、私たちは逃げていたでしょ?あれ、私の勘違い?」
言葉尻が少し跳ねる。あれから――つまり、東の魔女の館から命からがら飛び出して、煙と硝煙と死体の雨から逃げ延びてから――まだ一時間しか経っていない。途中、二回ほど構成員と交戦し、うち一度は瓶を投げられている。
「合ってるさ。ただ、それがサッカー観戦の妨げになる理由にはならない」
「あなたって人は……正気を疑うわ」
エリカはため息とともに肩を落とすが、足は止めない。なんだかんだで、着いてきてはいる。
「はぁ……物を知らないお嬢様だな。世の中には誰でも受け入れてくれる場所が2つある。教会とサッカースタジアムだ。どちらも叫びたければ叫べるし、黙って泣きたければ泣いてもいい。今まさに試合が始まろうとしているんだ。寄らないわけにはいかないだろ?」
「……まさか、本当に何も考えず来たの?」
「不満そうな顔をするなよ。休憩がてら軍資金を稼ごう。それに……これは社会勉強だ」
俺はエリカの手首を軽く引き、スタジアムのゲートを潜る。歓声が押し寄せてくる。外の荒れた街並みとは別世界のような熱気だ。
実のところ、グリーンブラッドの連絡係がこのスタジアムのチケット屋だった。スモッグの中でもピカピカに磨かれた窓の奥に、そいつはいた。
「チケットをくれ。それと、FCエメラルダスの勝ちに10ドル」
言って、10ドル札の裏に紙片を滑り込ませて渡す。
「はいよ」とチケット屋がにやけながらチケットと情報のメモを渡してくる。汗まみれの掌に、それがずっしりと感じられるのは、気のせいじゃない。
「エリカも賭けてみるか?」
「……ほんとに、試合見るつもりなの……?」
「当たり前だろ?ギャングに命を狙われてるくらいで、サッカーの試合を見逃す理由になるか?」
その瞬間、スタジアムの内から、地鳴りのような歌声が聞こえてきた。風に乗って響いてくる。低く、重く、そしてどこまでも希望に満ちていた。
When you walk through a storm
Hold your head up high
And don't be afraid of the dark
俺の足が止まる。胸の奥が、少しだけ熱くなる。
At the end of the storm
Is a golden sky
And the sweet silver song of a lark
群衆が一斉に歌っている。酒と汗の匂い、泥とタバコ、腐ったホットドッグの匂いのなかに、確かな祈りがあった。
俺も小さく口ずさむ。
Walk on through the wind
Walk on through the rain
Though your dreams be tossed and blown
「ねえ!ちょっとは説明してよ。何なの、これ!」
エリカが叫ぶが、声は歌にかき消される。俺は彼女を振り返り、笑って答えた。
「お前も唄ってみろよ。ユルネバは良い唄だからさ」
Walk on, walk on
With hope in your heart
And you'll never walk alone
You'll never walk alone
試合が始まる。キックオフの笛が鳴った瞬間、群衆は立ち上がり、嵐のように叫んだ。スタジアムが揺れる。ピッチに向かって走り出す選手たちの姿が、まるで命を賭けているように眩しかった。
前半、FCエメラルダスは快調だった。
手堅くパスを繋ぎ、鉄壁の守備でティンバースを抑え込む。スタンドの緑の応援団が沸くたび、俺は拳を軽く握った。これで十ドルが倍になる。ついでに言えば、俺の読みが当たる気持ちよさで一杯になる予定だった。
ところが、後半――空気が変わった。
ティンバースが一点を返した直後、スタジアムの熱が一段階上がった。その瞬間を見計らったかのように、俺の隣の席がひっそりと埋まった。
灰色のキャップ。チューインガムを噛む口元。売店のバイトか何かにしか見えない、冴えない青年――いや、違う。目が違った。焦点を曖昧にぼかしながら、全体を鋭く見ている。プロの目だ。
「……情報屋か?」俺が小さくつぶやくと、彼は頷いた。
「君に伝言だ。『東の魔女は死んだ。しかし、ドロシーは捕らわれたまま』……意味はわかるか?」
「まだ仕事は終わっていないって事だろ?」
「その通り。東の魔女を殺したのは、おそらく、スケアクロウのことだろう」
周囲が歓声でどよめく。タカユキがタックルをしてきたディフェンダーを逆に吹っ飛ばした場面だった。エリカが息を飲んだのが横で分かった。が、こちらはそれどころじゃない。
「他には?」
「1つは合流場所。もう1つは、行きのチケットだ」
俺の目が細くなる。
「エリカはどうする?話した方が良いのか」
「まだ伏せといた方が良いだろうな。ただ“誰か”にとっての切り札であるのは確かだ」
男はカバンから紙袋を取り出し、中にチケットを紛れ込ませて渡してきた。
「あと三分で逆転されるぞ。ティンバースの“11番”は、本物だ」
「わかってる。くそったれの未来予報士が」
男は観客の波に溶けるように消えた。入れ替わるように、エリカが俺の腕を引いた。
「見てよ、今の……すごくなかった? なんて名前だったっけ、あの子?」
「知らねえよ」
ティンバースの歓声が一段と高まった。まもなく二点目が決まり、スタジアムは絶叫に包まれた。
俺はその喧騒の中、もう一度、情報屋の言葉を思い返す。
エリカは誰にとっての切り札何だ?
どちらにしろ、それが切られる前に、こっちは動くしかない。
そう思った時、ティンバースが逆転弾を決めた。
叫び、歌、太鼓の音、涙。勝者の咆哮がスタジアムを満たす中で、俺は自分の負けた十ドルよりも、近づいてきた“切り札”の匂いに、うっすらと笑った。
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