離別

 夜だった。グレイス家の屋敷にしては珍しく、蝋燭の火がすべて落ちていた。廊下に響くのは、誰かが革靴で床を踏む音だけ。いつもの執事の足音と同じなのに、その日は妙に冷たかった。


 私は十四だった。父の書斎で絵本を読みふけっていたが、急に扉が開いた。


「お嬢様、ここにおられましたか」


 いつもの柔らかい声だった。顔は笑っていた。でも、目が笑っていなかった。


 私が立ち上がるより早く、彼は懐から小さな瓶を取り出した。琥珀色の液体が、月明かりに鈍く光っていた。


「これは……?」


「お嬢様には関係ありません。すぐに終わります。少しだけ、目を閉じていてくだされば」


 その瞬間、遠くの客間で女中の悲鳴が上がった。すぐに掻き消された――たぶん、口を塞がれたのだろう。


「トト……何をしたの?」


「必要なことを。屋敷には、余分な者が多すぎましたから」


 父も母も、兄も姉も、夜の食卓についていた。私はたまたま食事を外しただけ。それだけの違いだった。


 私は椅子の背を掴んだまま、立ち尽くしていた。喉が震えて、声が出なかった。


「お嬢様。あなたには、生きていてもらいます」


「どうして……? 私だけ……」


 彼は微笑んだ。恐ろしく、優しげに。


「貴女には価値があります。"名"というものは、残された者によって意味を持つのです。私が貴女を守ります。必要なのは、ただ私の言うことを聞くだけ」


 全てを奪われ、私はあいつの人形になった。

 "グレイス"の名は、私のものではない。私に残されたのは、血にまみれた家と、汚い手に犯され続ける偶像。


 監視の目をかいくぐって脱走したのは、一度きりの賭けだった。

 あの夜の夢を、私は今でも見る。金の髪に触れる冷たい手。血の匂い。鳴き声のない叫び。

 街の底に落ちて、最初に出会ったのは一人の娼婦だった。真紅のリップと、紫煙にかすむ瞳。彼女は私を見て、こう言った。


「その目……あんた、何かを殺して逃げてきた顔をしてるわ」


 私は否定しなかった。何を殺したのか、自分でもよくわからなかったから。家族か。自分か。あるいは、あの夜の小さな自分の声か。


 名を聞かれたとき、私はとっさに答えた。


「エリカ……エリカ・グレイス」


 生まれて初めて、自分の意志で名乗った"グレイス"。奪われたものを、取り戻すために。


 そして今――

 私はまた、あの声を夢の中で聞いていた。


『お嬢様、目を閉じていてください』


 月明かりが揺れる。瓶の中の琥珀色の毒。冷たい手。笑っていない瞳。


 夢の中で、私は十四歳の私に言った。


「目を開けて。戦え」


 私は列車の窓枠に肘をかけて外を見ていた。この荒れた黄土色の大地は、故郷のフロントラインを思い出す。西部の最西端の土地は人の手が入っていない荒野が続いていた。父はそれを見てグレイトランドだと言っていたが、今に至るまでまったく理解できない。

 遠くで車輪の軋む音。隣では、カーボーイが小さないびきを立てていた。


 逃げ場なんてない。追っ手は来る。トトの目は、どこかで私を見ている。


 でも、もう怯えはしない。私は生き残った。誰よりも、深く血の上に立って。


 ――復讐はまだ、始まってもいない。


 もうすぐ目的地に着く。全てはそこから始まるはずだ。


「おはよう」


「おはようって、まだ荒野の真ん中だぜ」


「ちょうどいいじゃない。隠れるには」


 彼は唇を歪めた。いつもの、勝ち目のない賭けに乗るときの顔。


「まったく……あんたといると、ろくな目に遭わねぇな」


 それでも、彼は立ち上がった。腰のホルスターを整えて、私の目を見た。


「行こうか、エリカ・グレイス」


 私は頷いた。

 名の意味を、あの男――トトに思い知らせるために。

 私はもう、"あの夜の人形"じゃない。


 あの夜から、私のすべては復讐のために動いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る