第5話「喪失と応答」

 画面には、何の反応もなかった。


 「ここにいる」と送ってから、数分、いやもっとかもしれない。時間の感覚が曖昧になっていた。


 それでも、俺はスマホを握ったまま、あの言葉の余韻に浸っていた。


 初めて、自分の中から感情を送り出した。


 それはわずか一文だったけど、今まででいちばん重く、いちばん静かな声だった。


 


 ふと、画面が再び変化する。


 ノードの文字が浮かぶ。


 


 「記憶再構成準備完了。再生しますか?」


 


 迷いは、なかった。


 俺は画面を軽くタップした。


 


 次の瞬間、視界が白く揺れた。


 音も映像も、遠い昔の記憶のようにぼやけながら、ゆっくりと輪郭を取り戻していく。


 


  


 ──201X年4月18日。


 


 夕暮れの校庭。茜色の空に、部活を終えた生徒たちの笑い声がかすかに響いている。


 俺は、下校途中の昇降口の前に立っていた。


 その隣に、彼がいた。


 ——ハルキ。


 


 黒髪を無造作に切った少年。クラスでもあまり目立たないけど、やたらゲームの腕が良くて、俺とだけは話が合った。


 気がつけば、昼休みも放課後も、ずっと一緒にいた。


 その日も、何気なく帰ろうとしていた。いつも通りのはずだった。けれど、彼は足を止め、ぽつりとこう言った。


 


 「なあ、俺……引っ越すことになった」


 


 空気が止まった。


 俺は笑って、「冗談だろ」と言い返した。


 


 でも、ハルキはいつものようには笑わなかった。


 


 「もう決まってる。来週の月曜には、向こうに行く」


 


 頭の中が真っ白になった。


 何か言わなきゃいけなかった。引き止めるとか、寂しいとか、今までありがとうとか。


 でも、俺の口は動かなかった。


 


 「……なんで今さら、そんなの……」


 


 ようやく出た言葉は、それだけだった。


 


 「ごめん。言い出せなかった。でも、最後にちゃんと伝えたくて」


 


 そう言って、ハルキは手を差し出した。


 


 「……またな、じゃあな」


 


 その瞬間、胸の奥がぐしゃぐしゃになった。


 涙が出そうだった。でも泣きたくなかった。


 悲しいなんて、絶対に思いたくなかった。


 


 だから、俺はその手を見つめたまま、何も言わずに背を向けた。


 


 走った。


 そのまま家まで全力で走って、ドアを閉めて、ベッドに潜り込んで。


 


 その夜、俺はスマホの電源を落とした。


 LINEも、ゲームも、SNSも、全部オフにして、画面を伏せた。


 何も聞きたくなかった。見たくなかった。


 


 そして、そのまま……誰の声も、受け取らなくなった。


 


  


 映像が止まる。


 俺はしばらく画面を見つめていた。


 涙は出なかった。ただ、胸の奥が重かった。


 思い出したくなかったのは、あの「ごめん」と「またな」に応えなかった自分の方だった。


 


 ノードの声が、ゆっくりと届く。


 


 「あなたは、拒絶したのではありません。悲しみに、耐えられなかっただけです」


 


 そうかもしれない。


 それでも、今の俺はもう、あの日のままじゃない。


 


 俺は深く息を吸って、目を閉じた。


 そして、言葉を口にした。


 


 「……バイバイ。またな、ハルキ」


 


 それは、時間を超えて送る、最初で最後の返信だった。


 ようやく言えた。


 ようやく、別れを終わらせることができた。


 


 その瞬間、スマホが振動した。


 通知。


 


 画面に、たったひとつのメッセージが表示された。


 


 「誰かが応答しました」


 


 あの投稿——「つながりたいのに、無理だと分かってる」

 その投稿に、誰かが反応したのだ。


 


 俺は微笑んだ。ほんのわずかだけど、本当に、心から。


 


 これは、きっと——応答の連鎖だ。


 悲しみも、痛みも、ちゃんと誰かに届いて、返ってくる。


 


 そして今、俺はそれを初めて知った気がした。

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