第4話「他者の感情」

 部屋は静寂に包まれた。


 けれど、俺の中では何かが確かに揺れていた。


 


 記憶の奥底に、まだ誰かが眠っている。


 次に向き合うべきは、あの日だ。


 


 そう思った瞬間、スマホの画面がふいに点いた。


 


 「接続可能な感情を探索しています」


 


 ノードの声が響いたわけじゃない。ただ、静かにそう表示された文字を、俺は無意識に読み上げていた。


 


 画面がスッと切り替わる。アプリのウィンドウが勝手に立ち上がり、ひとつのタイムラインが流れ始める。


 投稿の羅列。見知らぬ名前。匿名のアイコン。記号のような感情の断片。


 ——SNS?


 いや、違う。既存のアプリじゃない。まるで、このスマホの中だけに存在する、感情のログみたいなものだ。


 


 一つひとつの投稿には、文章の代わりに「感情のタグ」が付いていた。


 


 「喜び/4分前」

 「焦燥/11分前」

 「自己否定/15分前」

 「寂しさ/たった今」


 


 指が勝手にスクロールする。


 触れるたび、心の奥に小さな波紋が広がっていく。文章は短いものが多い。けれど、その裏にある感情が、ダイレクトに流れ込んでくる。


 


 ——彼氏から返事がこない。多分、もう終わってる。

 ——明日も出社。胃が痛い。

 ——もう大丈夫って何度も言ったのに、誰も気づかない。

 ——誰か、どこかにいますか。


 


 感情の奔流にのまれる。なのに、止められない。


 ひとつひとつの言葉に、たしかな「痛み」があった。誰の顔も知らない。名前も知らない。それなのに、その痛みは俺の中に沈んでいく。


 


 ——これが、他人の感情か。


 


 ノードが以前、言っていた。「あなたは、吸収しすぎた」。たしかに、今なら分かる。これだけの思いを浴び続けたら、誰だって壊れる。


 でも、不思議と苦しくはなかった。


 むしろ、懐かしかった。


 


 俺も、昔はこうやって言葉を吐き出していた。


 誰かに届くこともない、ただのノイズとして。それでも書かずにはいられなかった。そうじゃないと、どこかが崩れそうだった。


 


 だから——


 その投稿を見つけたとき、俺は思わず画面に手を伸ばしていた。


 


 ——他人とつながるのが怖い。

 ——つながりたいのに、無理だって分かってる。

 ——だからもう、誰にも期待してない。

 ——でも、声がほしい。

 ——誰か。誰か、ここにいて。


 


 心が、撃ち抜かれたようだった。


 それは、過去の俺の言葉だった。言ってはいないはずなのに、まるで日記を盗み見されたような感覚。書いた本人じゃなくても、それは俺だった。


 


 その投稿の下に、返信欄がひとつだけ開かれていた。


 カーソルが点滅している。


 


 ノードの声が、今度は本当に聞こえた。


 


 「この人も、かつてのあなたと同じです。遮断された回線。誰にも届かない、感情の孤島」


 


 俺はスマホを見つめた。


 入力欄に、何を書けばいいのか分からなかった。


 なぐさめる言葉なんて、思いつかない。


 励ます資格なんて、俺にはない。


 


 でも、ひとつだけ、言えることがあった。


 


 俺は、指を動かした。


 


 そして、短く打ち込んだ。


 


 「ここにいる」


 


 送信ボタンを押すと、投稿は静かに送られていった。


 それは、さざ波のように感情の海へ溶け込んでいく、かすかな声だった。


 


 画面は何も返さない。ノードも何も言わなかった。


 だけど——


 なぜだろう。


 俺は、今、誰かとちゃんとつながった気がした。


 


 初めて、自分の言葉で、誰かに「応答」できた。

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