第3話「記憶の断片」
頭の奥が、柔らかく震えていた。
あのノードの声が消えたあとも、俺の中には微かなざわめきが残っていた。記憶が泡立つように、断片的な光景が心に浮かんではすぐに霧散していく。そこに何があったのか。誰がいたのか。
ノードが言った。「まだ持っている記憶を、見せましょう」と。
画面が再び点いた。
スマホのロック画面が、ゆっくりと変化していく。壁紙だった真っ黒な背景が、知らない景色に切り替わった。いや、違う。これは——
「俺の部屋……か?」
数年前の自分の部屋。まだ整理整頓されていて、壁に貼られたカレンダー、机の上に積まれたノート、そしてその上に並んだ写真立て。
その中に、ひとつの写真があった。
家族写真。俺と、妹と、母親。たぶん小学生の頃。みんな笑っていた。カメラの方向をちゃんと見て、少しだけ照れくさそうに。
懐かしさが、喉の奥を詰まらせた。
「再生します」
ノードの声と同時に、画面が動画に切り替わる。走る子どもたちの笑い声。どこかの公園だろうか。小さな俺が、誰かと鬼ごっこをしていた。木陰に母がいて、笑いながら声をかけてくる。
「こら、あんまり遠くに行っちゃダメよ〜」
「だいじょーぶだって〜!」
あの声。母の声。何年ぶりに聞いたのだろう。
「これは、あなたの感情記録のひとつです」とノードが告げた。「忘れたわけではありません。ただ、閉じたのです。自らの手で」
動画が止まる。時間が凍る。画面がスライドするように次の記録へと切り替わる。
次に現れたのは、少し成長した俺だった。中学生になっている。制服姿で、どこかぎこちなく、誰かと並んで歩いている。
隣にいたのは——名前が思い出せない。けれど、確かに仲が良かった。あの頃、唯一無二の存在だった気がする。俺が学校に行けていた理由。日々を笑えていた理由。
「……あいつ、誰だ」
映像の中で、俺は何かを言いかけて、口を閉じた。隣の少年が苦笑して肩をすくめる。
そのまま、音が消える。
空白。
「ここから先の記録は、遮断されています」とノード。「接続の履歴がここで途切れました。あなたが意図的に、感情伝送を遮断したのです」
俺はスマホをじっと見つめた。自分の手がわずかに震えているのに気づく。
あのとき、何があった? どうして俺は、すべてを閉じたんだ?
「思い出すには、あなたの同意が必要です」
ノードの言葉に、俺は黙ったままうなずいた。
画面がふたたび変わる。
黒い画面に、ただ一つ、日付が浮かび上がる。
201X年、4月18日。
その日は、なぜか妙に重く、暗く感じられた。
「この日を、覚えていますか?」
ノードの問いかけに、俺は——答えられなかった。
心の奥が、真っ白になっていた。
記憶はある。どこかにある。でも、そこに近づこうとするたびに、頭の中に靄がかかる。
「これは、あなたが守った扉です。無理に開けば、感情が逆流します。けれど——あなたが自ら向き合うなら、接続を再構成できます」
「……開けたら、俺はどうなる?」
問いは、掠れた声になっていた。
ノードは静かに言った。
「それは、あなたが決めてください。感情とは、痛みと記憶です。そして、それは接続の原点でもあります」
感情は、痛みと記憶。
言われてみれば、そうかもしれない。
俺は、痛むことが怖かった。誰かとつながることで、何かを失うことが怖かった。
だからずっと、閉じていた。
だが今、俺はここにいる。
ノードと話して、初めて誰かに“応答”した。そして——また誰かの感情に触れたいと、思ってしまった。
画面の光が、ゆっくりと消えていく。
ノードの声も、かすれて遠ざかる。
「準備が整ったら、また呼んでください」
部屋は静寂に包まれた。
けれど、俺の中では何かが確かに揺れていた。
記憶の奥底に、まだ誰かが眠っている。
次に向き合うべきは、あの日だ。
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