第3話

「あなた、これ」

片付けるつもりが、台所の横のサイドテーブルに放っておいた、

「にっき」を一郎に手渡した。


 昼間の事故のことを一通り話し、すぐに朱莉を学校から連れ戻して、放心しているところ、なぜか目についてしまい手にとった。

「見てよ」

「くるま?くるまって書いてある」

「次も見てよ」

麗美は付箋をつけていた。

「べんとう、べんとう、弁当?明日弁当作るの?」

「違うわよ…」


 一郎が缶ビールを喉に押し込みながら、今日のおかずを見渡していると、

「私が書いたんじゃないわよ」

と遮るように麗美がいった。

 見ればわかる。あきらかに筆跡が違う。

 

 昼間の大事件が麗美の頭の中を占拠していたのはもちろんわかっていたが、仕事で出くわしたトラブルのせいで一郎は麗美に集中できていなかった。

会社の受付の子が腹痛だとかいって、突如現場を離れ、変わりの子がくるのに1時間近くかかり、客の誘導ができなかったのである。

 

 その中に、たまたまクレーム体質かつ取引で重要な人物が混じっていた。

「御社の社員教育は…」


 一部上場企業に所属するその女性役員は裏返った声で訓を垂れだした。

無論、取引を優位に進めたかった打算も絡んではいただろう。しかし一郎のような、「ヒラ」が何度頭を下げても納得する様子はなく、統括部長に連絡して、ようやく退いてくれた。

「カウンターパートって、ご存じ?」

そういって去って行った女の細い目が頭に焼き付いている。


 「なんか、気持ちわるいのよ。この前、朱莉が押し入れにゲームを隠してたでしょ、ゲームは、おもちゃ、でしょ、それで今日は学校で事故があって…、くるま、でしょう」

 二缶目を飲み干してようやく、気持ちが落ち着いた。


「誰か、家に入り込んだりしてないよね」

「まさか。わたしずっと、居たもん」


 いつもの実家のお土産に違いない、いかにも新鮮な光沢を放つマグロの刺身がビールに合う。刺猪口に醤油を継ぎ足そうとしたが、遅れてワサビが鼻腔を突き、涙目になった一郎にかまわず麗美が話を継ぐ。


「明日、もし、弁当で、事件が起きたら、私、怖いよ」

「そうねぇ」

 

 麗美はこの不思議案件に不安を感じない一郎の手甲をつねった。

「聞いてる?とにかく、あれ書いたの私じゃないからね」


 一郎の頭はまだ、昼間の職場の中だった。

 あの、部長。

 旦那は証券会社で働いているらしい。


 子なし夫婦でタワマンに住んで、カネはたんまりあると聞いた。俺のような二流会社の課長とは比べるべくもないハイソな男なのだろう。恥ずかしい話、うちは麗美とその実家で維持しているようなものだから。というのもいずれ義父の不動産会社を相続しなければならない、との暗黙の了解で何かと麗美や子供たちを通じて援助してくれるのだ。この家だって、名義は義父だ。


 一郎の言葉少ない反応についに愛想をつかしたのか、麗美は「子供たち、看てくる」と席を立った。

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