第4話

「課長、先方からまた、お電話です。おつなぎしますか」

 朝から電話の対応に追われていた。


 保健所、病院、常務の家族、そしてかのキリキリ女の商社。

運が悪いとしかいいようがない。

「ちょっと待って…いややっぱり出るよ…申し訳ございません、当社への聞き取りについては、本日中に組みますので…、はい、お待ちいただけると有り難いです…そうですか、わかりました」

「課長、また丸一商社からです」


 受話器にべっとり汗がついていた。朝から何度、やり取りをしたことだろう。今日は課の全員が、残業の覚悟を決めたように、忙しいながらもうつろな目をしていた。


「…ったく、困りますよ。何だって、あんな弁当。そりゃあ、老舗のうなぎ屋だってことはわかりますよ。お気遣いはわかりますがネ、専務は大学病院に緊急入院になりましたよ」

 専務というのは先日の最年少役員の女だ。

昨日の会議の後、食中毒で救急搬送されてしまったのだ。

原因は一郎が注文した弁当…


 ただし、実は、一郎もその弁当を食べた。

念のため1個余分に注文した、一つ1万3千円もする、うな重がおこぼれで手元にまわってきたのだ。

おいしかったのに。

もちろん、腹なんか壊していない。


 午後2時過ぎ、米の一粒まできれいに箸で拾い、満足して木箱をゴミ箱にいれた。

しかし後に、保健所が神妙な顔つきでそれを回収しにくるとは、想像だにしなかった。

 

 その日は丸一商社への謝罪奉公ですっかりつぶれた。

 あとから一郎の身体の状態もあれこれ聞かれたが、腹痛どころか、下痢も吐き気もないし、いたって調子よい、としか返事のしようがなかった。便を調べたいとのことで、無理やり力んで排泄した。

 

 どうやら、食中毒をおこしたのは彼女だけのようだった。ばい菌がみつかったのかは知らないが、同じものを食べた社内の幹部も一郎同様、問題はなかった。


「あれは、どうしたの!」

「あれって?」

「日記!!」

「片付けたわ、どうして?」

一郎の目は普段になく、尖っていた。

「どうしたの」

 

 一郎は足早に食卓を通り過ぎ、押し入れに向かい、布団を乱暴に投げつけ、目当ての物をまさぐった。

「ちょっと!」

麗美は畳に散った冬布団に駆け寄った。

「ねぇ、どうしたのよ」

麗美は一郎の腕を強くゆすって、無理にこちらを振り向かせた。

「一郎さん!どうしたのよ」

「…リビングへ行こう」


 一郎は昼間起きた事件のあらましを麗美へ話した。

「だってバカバカしいよ、ね、そうでしょ」

麗美の声は震えていた。

「何て書いてあるの…」

「いや、何も」

麗美は恐る恐る日記をつかんだ。

べんとう…


……何も書かれていない。

だが、紙をひとつひとつ開いた時だった。


 麗美はキャっと金切り声を上げ、日記を落とした。


 見開きのまま落ちたそれを一郎は即座に拾い上げた。


長い沈黙の後、高鳴る動悸を抑えながら、一郎はようやく、それを反転させた。

紙の真ん中には、べっとりした真っ赤な色で、

「バツ」

とあった。

「なによ、これ。なんなの」


 ただの赤ではなかった。乾いて血が凝集したような黒い点が、歪んだ線に沿ってブツブツとこびりついていた。一郎は確かめるように人差し指の腹でそれをなぞった。ざらついた感触が伝わった。

「…キミじゃないんだね」


 確かめずにはいられなかった。麗美でないことはわかっている。そもそも「べんとう」の話は今、はじめてしたのだ。

「バカなこといわないで」

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