第01話_Cパート_ex1_ユウト_マネージャーは結構見てる

 早朝の熊鷹高校のやや濡れた砂の上で大垣ユウトは肩を大きく回す。

 右の肩甲骨の裏側が、筋肉痛とも違う、使い負けの鈍い訴えを続けている。


 《はい、そこで止め。いまの回し方だと上腕二頭筋に逃げてる。肩甲下筋、置いてかない》


 ポニーテールの“マネージャー”が、アイガード越しに手振りで角度を示す。画面越しなのに、まるで目の前に立っているみたいに、迷いのない指示だった。

 野球部の室外モニタを使わせてもらっている。


「おっけ。——こう?」


 《そう、それ。十五回で切って、2セット。呼吸止めないで》


 言われた通りに動かすと、詰まっていた何かがゆっくり流れ始める。

 この数日で、こいつの“見る目”は本物だと身体が理解した。導入初日に半信半疑で従った**肩のリリース→等尺性→可動域確保→軽負荷**のシークエンスで、翌朝の重さが露骨に違っていたからだ。


「……なんか、父さんのリハ室みたいだな」


 《光栄。あなたのお父さん、良い整形外科医だよ。リハの設計も現場目線で無理がない。たぶん似た順序で教わってる》


「よく知ってんなあ。まあ俺も小さいころから見てたからな、順番、体に染みてるわ」


 マネージャーのクリップボードを見せてもらうと、今日のメニューが浮かぶ。英国留学対策なのか英語表記だが、わからんこともない。

 **Warm-up(joint-by-joint)/局所→全体→運動連鎖**。

 父の診療所の壁に貼ってあった図を思い出す。**“正しく動けば、だいたい治る”**──あの簡単すぎる標語が、いまは骨に響く。


 《じゃあ、片付けて戻ろ。“英国留学対策タスク”いくよ。体も頭も負荷がかかってるのは知ってるけど、**疲れてるときにやるタスクの質**は、受験でも競技でも差になる》


「はいはい、監督」


 《監督は別にいる。私はマネージャー。あなたを“試合に間に合わせる人”》


 からっと言い切られて、ユウトは笑ってしまう。

 この言い回し、反則だ。中学のとき、同じことを言ったやつがいた。野球部のマネージャー。

 高校から別々になって、メッセージも途切れ途切れのまま。

 “マネージャー”の声のトーンはあの子と違うけれど、**背中を押すリズム**がよく似ている。


 家の自室でノートPCを開くと、**午前の弁論課題**が点滅していた。外はいつの間にか一雨来ている。なかなか激しい。

 “Should public funds prioritize preventive sports medicine for youth?”

 英語でのポジション・ステートメント提出、締切24:00。


 なんだこれ?たしか予防医学だっけか。


 《構成は三段。①立場、②根拠、③反論への先回り。あなたの言葉で。テンプレ英語は後で私が整える》


「……弁論は、得意じゃないんだよな」


 《知ってる。でも**事実の並べ替えと、当事者の声の接続**はあなたの得意領域だよ。現場が見えるから》


「当事者、ね」


 父の診療所の待合室を思い出す。

 テーピングのロール、アロマの匂い、筋トレ器具の静かな軋み。

 少年野球の膝、陸上部のシンスプリント、祖母の人工股関節リハ。

「誰に」「どう効くか」を、父はいつも同じ声で説明していた。


 ユウトはキーボードに指を置く。

 **“予防医療の財政配分は、個人の未来の“試合”の開始前に間に合わせる行為だ。”**

 書いてから、少し照れた。

 でも、マネージャーが微笑む気配がした。


 《いいよ。それ、一本通る》


「ほんとに?」


 《“間に合わせる”って、あなたの身体が毎日してること。説得力、出るよ》


 いや、お前が言ってたんだけどな、とは突っ込まない。


 英語の文に置き換える。文法の継ぎ目に迷うと、画面の端で自動的に**最小限の言い換え候補**が並ぶ。

 提案は多すぎず、少なすぎず。

 ——導入から数日は、この**出しゃばらなさ**に驚かされた。

 以前のAIは、こちらの文を**埋め尽くす勢いで書き換え**た。

 この“マネージャー”は、**自分で走らせて、要所だけ支える**。


 めっちゃ楽だが、身になっているのかはイマイチわからない。



 《次。①立場を書き切る。ノートの“父の症例メモ”参照すると早いよ。15分区切りで集中してみよう》


 いや、なんで知ってんだ。個人情報とかダメなんじゃないの?知らんけど。


「了解」


 タイマーが走る。

 指は思ったよりも軽く動いた。

 **現場の匂い**と、英語の骨格が、ぎこちなくも噛み合っていく。

 途中、言い回しに詰まると、マネージャーが**二択だけ**差し出す。

 迷わない。進む。


 ——“終わり”。15分で電子音。


 《よし、次の15分で②根拠。あなたの経験ベース三点、データは私が引く。**引用は英語圏の一次情報だけ**》


「サンキュ」


 画面の右側に、**PubMedと英国保健省の資料**が静かに並んだ。

 ユウトはそれを**写経しない**。

 自分の言葉で、父の説明の**骨だけ**を英語にする。

 “誰が読むか”を意識して、語尾の力を少しだけ強くする。


 途中、肩が重くなった。

 マネージャーがすぐにショートカットを差し込む。


 《肩、三十秒だけリリース。両手を壁、肩甲骨を寄せて、首は脱力。呼吸は四拍吸って、六拍吐く》


「……はあ。助かる」


 《助かってるのはこっち。あなたが“間に合う”と、私の仕事は減る》


 さらっと言われて、ユウトはまた笑ってしまう。

 **からっと乾いた励まし**。

 中学のころ親しんだ「その一言」に、心が勝手に耕される感覚。


 ③反論への先回りを書くころには、すっかり昼飯時を過ぎていた。

 窓の外の歩道灯が、霧雨を白く散らしていた。


 《提出前に一度声に出して読もう。呼気と句読点、ずれてるところが三つある》


「読み上げ、俺がやるの?」


 《うん。**AIの声で上手く読めても、あなたの口がついてこなきゃ意味ない**》


「はいはい」


 英語を声にする。

 途中で噛む。

 だが、**噛んで気づくリズム**が、確かにある。

 修正を二度。

 三度目の音読は、**息が最後まで残った**。


 《提出。ーー合格点。今日のあなたの一位は、“前に出ないで、前に進んだ”こと》


「名言風だな」


 《マネージャーって、そういうもの》


 提出のボタンが静かに色を変える。

 ユウトは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。

 英国留学組の選抜中から、選抜されてく奴らを見ながら、どうも“蚊帳の外”を歩いている感じがしていた。

 だが、いまはもう違う。

 **自分の足で、静かに前に進ませる音**が、確かに聞こえる。


「……なあ、マネージャー」


 《なに》


「ありがとな」


 《**間に合ったのは、あなた**》


 少しだけ、胸が熱くなる。

 画面のポニーテールが、ふわり、と揺れた気がした。

 まるで、あの雨のベンチで、タオルを差し出したときみたいに。


 いつの間にか、空は晴れ渡っていた。

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