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 まっすぐ伸びていた県道が次第に曲がりくねり、見渡す限り広がる田畑の向こうにあった山々が県道の両脇に迫るようになってきた頃、目指していた自動車修理工場は見えた。

 トタン板の作業場は開け放たれていた。祐哉が、すいませーんと声をあげると、ジャッキで前輪を持ち上げられた軽トラックの下から、水色のつなぎ姿の初老の男が仰向けに這い出てきた。日焼けした顔に、白いものも混じる短い顎髭がきらきらと光っていた。

「チューブは新しいのと交換したから。五千円ね」

 ボソボソとしたその声に驚き、修理をお願いした時と同じ人なのだろうかと一瞬戸惑ったが、間違いはなかった。祐哉は用意していた五千円札を手渡した。受け取った男の手は油で黒ずんでいた。

日々の仕事を終えてからその黒ずみを洗い落としても、どうせ次の仕事で汚れる。それを何度も繰り返し、いつしか汚れを全部落とすことなどしなくなるのだろう……、瞬時にそんなことを考えながら、男の手に祐哉が見入っていると

「あそこに置いてあるから」

 男は面倒臭そうに作業場の隅を顎で示して言った。自転車を押して立ち去る間際、祐哉は男がいた場所を振り返った。軽トラックの下から、男の靴の裏だけが見えた。

「ありがとうございましたー」

 聞こえないはずがないほどの声をあげたが、返事はなかった。聞こえるはずがないほどの小さなためいきをついて、祐哉は作業場を後にした。

 外で待っていた明日香と、並んで自転車を漕ぎながら、来た道を戻った。よく晴れていた空に雲が差し込み、空気は少しづつ冷たくなった。プールの消毒のような青くさい匂いがした。

 曲がりくねっていた道がまっすぐ伸び、左右に田んぼが広がるようになった頃、明日香は言った。

「もう一回行ってみたら。下田まで……自転車で」

 プッ。短いクラクションが背後で鳴ったので、祐哉が前に出て二人は一列になった。バスが黒煙をあげて二人を追い越して行く。

「もう一回行ってみたら!」

 明日香は声を張り上げた。自転車の速度を上げ、祐哉の横に並ぼうとしたが、今度は鋭いクラクションが明日香を阻んだ。祐哉の答えはない。

「またパンクしても大丈夫じゃん。あそこで直してくれるし!」

 これ見よがしに大げさな避け方をして、青いセダンが二人を追い越していく。

「行かねえよ、もう」

「なんで」

「バカらしい。チャリンコなんて」

 黒ずんだ手。作業場の男の手が祐哉の脳裏に蘇る。あの手は車を直すための手だ。チャリンコを直すためなんかじゃない。あの男はそう言いたかったのではないだろうか。祐哉は自問した。

 明日香は背後を振り向き、車が来ないことを確かめてから祐哉の前に出た。左手をハンドルから離し、背中ごと振り返った姿勢で、もう一度声をあげた。

「私も行くって言ったら?」

「行かねえって言ってんじゃん!」

 後ろに結んでいたはずの明日香の髪はほどけ、いつもこぼれる耳の横の髪といっしょになって、こちらになびいている。彼女の背後に、まっすぐ県道が延びる。その先には祐哉が暮らす松崎の町並みが小さく一通り納まっている。右隅の山際には二人が通う高校がある。青い空が町を覆う。

 これが今の自分が生きる世界の全てなんだ。祐哉はふと思った。

「何それ! 行きの時と全然言ってること違うじゃん!」

 明日香はそう叫ぶと前に向き直り、立ち上がって自転車のペダルを強く漕ぎだした。彼女の名を叫び、祐哉もペダルに力を込めるが二人の差はますます広がる。一瞬こちらを振り返り、笑いかける明日香の姿が小さく見えた。

 目の前に広がる町は次第に大きくなり、祐哉の視界に収まりきらなくなった。国道が横切る交差点を右に曲がり、バスステーションの手前で左に曲がり、砂がかすかに混じる道を海に向かった。水着姿で路地を海に向かう大人や子供達を巧みに避け、途中から路地に入った。

 河口のそばで道は行き止まりとなっていた。堤防の手前に明日香の自転車が置いてあった。祐哉も側に自転車を置いた。堤防を駆け上がると、海の側に小さな山がそびえ、山のふもとにある赤い鳥居を明日香が走ってくぐっていくのが見えた。その先に登りの石段が、生い茂る木々を貫くようにまっすぐ続いている。

 木々の中で、こんにちは、と明日香の声が響いた。石段の中腹ではおばさんがほうきで石段を掃きながら少しずつこちらに降りて来る。

 息を切らしながら、祐哉は一段飛ばしで石段を駆け上がる。

「八十八、九十……九十二……九十四、九十六」

 九十八段の石段を駆け上り、祐哉は両手を膝について立ち止まった。額の汗が、古いコンクリートのひびに生えた苔に染み込む。

 顔を上げると、正面の扉の開いた社殿の中で、明日香がこちらを向いて座っている。サンダルを履いたまま、地べたに伸ばした足をぶらぶらさせている。

「チャリは本当にもういいから。その代わり、バイトした金でバスに乗る」

「何のことだっけ? それ」

 明日香はそう言ってから社殿の中でゆっくりと仰向けに体を伸ばした。社殿は古い木造の建物で、中は明かりもなく薄暗い。

「おめえが言ったじゃん最初にー」

 祐哉はへたり込むように明日香の隣に寝転がった。仰向けになった頭上が賽銭箱に当たる。かすかに湿った土の香り。いつも外の光が届かなくて本当の色がわかりにくい、天井の木の板。二人はもう何度も、この色と香りを味わった。

 蝉の鳴き声、打ち寄せる波の音、石段をほうきで掃く音、どれもが規則正しく響く。その中に、海辺で遊ぶ子供達の叫び声が混じる。

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