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 婆沙羅山に向かって一直線に伸びる那賀川の両岸には木々が青々と生い茂り、川沿いを日陰で覆う。初めて訪れた者は、まさかこの木々がみな桜だとは思わないだろう。

 那賀川の横を県道が並行する。ペダルをこぐ足に合わせ、祐哉の視界は緩やかに左右する。県道脇の歩道を、祐哉の漕ぐ自転車は後ろに明日香を乗せてゆっくり進む。たとえ小豆大程度の石でも、踏めばその感触は二人の尻を、特に荷台に座る明日香には鋭く刺激する。アスファルトの歩道には、自転車がよく通る真ん中を避けるようにして、細かい砂利がそこかしこに散らばっていた。

 自転車のスピードが少しずつ上がるにつれ、視界の揺れは少なくなり、姿勢は安定する。路上の細かい砂利は次第に減り、さっきまでガタガタと音をたてていた自転車は静けさを取り戻す。

「ここの道、ずっと先に行ったことある?」

 ようやく言葉を交わす余裕が生まれた祐哉は明日香に尋ねる。

「あるよ。家族と下田の親戚の家まで、車で」

「自転車では?」

「ないよ」

 額の汗を左手で拭いながら明日香は答える。揺れる自転車のバランスを、またがる両足を伸ばして取る。

 自転車の速度は次第に安定し、左右の揺れが緩やかになる。路上には再び細かい砂利が増えだしたが、それらを全てかわすような緩やかな軌道を、祐哉は頭の中で描いた。自転車の前輪はほぼ忠実にそれをなぞっていった。

 すぐ横の県道を自動車が前からやってくる。黒系のごつい感じの車。後ろ姿しか見えなかった、さっき片付けた部屋を出ていった、あのカップル。また練馬ナンバー。どんな感じだろうか。祐哉はどうしても中に乗っている人の顔を見てしまう。すれ違う瞬間、車内の顔を見る。もうじき還暦に差し掛かりそうな夫婦だった。

「ないよ」

 明日香はもう一度答えた。さっきよりも、ちょっとだけからかうような口調だ。

「あっ、そ……」

「ずっと山の中まで行って坂を登ってトンネル越えたら自転車がパンクして日が暮れて泣きそうになって引き返して」

「うるせーよ」

「戻っても戻っても自転車直せそうなとこがなくて怖くなって、しょうがないから道沿いにたまたまあった車の修理屋さんに無理矢理直してもらったことなんて」

 祐哉は描き続けていた軌道からわざと外れたところに自転車の前輪を導いた。ハンドルを握る両手が小刻みに震える。

「痛い。当たる当たる。ちょっと、もっと優しく走ってよ」

 明日香を無視して、祐哉は軌道をわざと外し続ける。

「車と自転車じゃ行く意味が全然違うの」

「車で行けないならバスで行けばいいのに。なんで? 自転車」

「自分の力で行くから意味あるじゃん」

「私なら自分の力でバイトして稼いだお金でバスに乗るけど」

「わかってないなー」

 自転車のスピードは落ちない。細かい砂利を踏み続ける自転車は震えが止まらない。明日香は荷台にまたがる両足を地面に付ける。

「痛い痛い、ちょっと。祐哉!」

 明日香は左右に揺れ続ける祐哉の背中を右手で思い切り打った。蝉の鳴き声に包まれた歩道の中で、パチーンと弾ける音は、一瞬際立った。大げさにのけぞった祐哉は立ち上がってペダルをさらに強く漕ぎ出す。明日香は地面の両足に体重を掛ける。細かい砂利がサンダルの裏をザラザラと転がっていく。自転車のスピードは落ち、左右の揺れは激しくなる。

 向こうからまた車が来る。黒のワンボックスカー。静岡ナンバー。祐哉は車内の人物を確かめる。運転席と助手席、どちらも頭にタオルを巻き、白いTシャツ姿。顎髭。助手席の方は窓の外に肘を突き出している。腕も顔も日焼けしている。祐哉は助手席の男と目が合ったような気がした。

「もうっ、祐哉止まれよ!」

「明日香、足つくな。コケる」

「お前ら勉強しろー!」

「え?」

 自転車を漕ぐ祐哉の足と、明日香のサンダルの裏を流れる砂利は止まった。二人は県道を振り返った。大人の男の、野太い声だった。祐哉は思い知った。自分の声は既に声変わりを終えてはいるものの、大人の声にはまだ程遠い。黒塗りのワンボックスカーは走り去る。

「さっきの声、あの車から? 祐哉じゃないもんねー」

 祐哉は明日香の声に気づいていない。あの男に驚いた瞬間の明日香の声、大きな声ではなかったがかろうじて聞き取れたその声を、祐哉は頭の中で繰り返し再生し続けていた。全くの虚をつかれた戸惑いと驚きの声だった。幼稚園に通い始める前からの近所同士で幼なじみの二人。幼稚園も小学校も中学校も高校も同じ。二人でいる時間は結果として、祐哉にとっては五つ離れた兄の哲哉といる時間よりも長かった。それでも彼女の声には、祐哉の知らない新しい姿があった。

 明日香は自転車の荷台から降り、祐哉の先を歩きだした。日差しを受け止めきれずにいっぱいの葉を緑色に光らせる桜の木々、そして、木々の至る所でその幹の色に潜んで鳴き続けている蝉の声が、歩道に立つ二人を包み込んでいた。

「ね、聞いてる? さっきのなんだろうね。勉強しろーだって。おもしろい人だよね」

 振り返って問いかける明日香に、祐哉は自転車を押しながら早足で追いついた。

「お前ら勉強しろー」

 冗談混じりに男の声をまねて声に出してみた。

「全然にてないっ」

 髪を揺らしながら明日香は笑い転げる。祐哉は明日香の右隣を歩きながら右手で自転車のハンドルを持ち、お互いの左手同士を、祐哉の左手が明日香の背中越しに伸びる形でつないだ。

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