背筋をのばして

芳岡 海

背筋をのばして

 誰かの残業が今日も夜景を作る。

 道路は街の血管なのだと、夜の街を見るとよく分かる。ビルの窓の明かりが細胞。なら私たちは、血管の中の赤血球か。細胞の中のミトコンドリアか。遺伝子か。タクシーが昼間の顔をして煌々と走り抜ける。


 もう今日が終わらないんじゃないかというような残業をして、結局、毎朝いつも通りに出勤している。二月と三月は繁忙期だと分かって入社した、と思ってはいるけど、分かっているのは私の頭だけで身体ではないと思う。

 けれども派遣社員の私の忙しさなど、たかが知れているとも思う。


 五月二十五日 ファミリーマート 1,560円。

 五月二十六日 ダイソー 550円。

 五月二十九日 また、ファミリーマート 今度は、460円。


 運が悪かったのか時代が悪かったのか私が悪かったのか、それなりに勉強をしてきたつもりだったのだけど、得た職は大手会計事務所の派遣社員の肩書(大手、とつけてしまう僅かな意地がまた悲しい)。

 履歴書に何度も堂々と書いた簿記一級合格、の知識は結局正社員たちが日々積み重ねる「実務経験」に駆逐されている。


 私の仕事は、今は三月決算の顧客の領収書の数字を打ち込むことだ。


 六月分売上 462,200円。

 六月十二日仕入 174,600円。

 六月二十四日仕入 58,440円……


 売上から仕入金額を引いたものが粗利益と呼ばれるものになります。粗利益と売上の比率が粗利益率と呼ばれるものになり、という簿記で習った知識は今はちっとも必要ではない。


 ネイルが伸びてきている。とキーボードを叩く手を見て思う。でも今月はサロンに行く余裕はない。休日は終わらない仕事を抱えるか、溜まった家事で一日を終えるか、睡眠に充てないと無理。本当は美容院にカラーにも行きたいけど今はもういい。髪の生え際は仕事中に視界に入って気分が落ちることはないし。


 「あら名刺入れなんて、ちゃんと用意したんだね」

 という上司の言葉を聞いてから、入社祝いに自分で買った名刺入れは、デスクの引き出しの奥にしまい込んでいる。他意はなかったかもしれない。派遣は名刺交換なんてしないから、素直にそう言ったのかもしれない。

 初任給で買った八センチのピンヒールも、上司から「社内なんだからぺたんこでいいのよ」と言われて以来、社内ではフラットシューズに履き替えるようになり、今では通勤もそれで済ますようになった。


 社員は多いから女性の正社員も多い。私の直属のその上司も女性だ。歩きやすい三センチの太いヒールのシューズとPCが入る機能的なリュックに、黒のパンツスーツやグレーのタイトスカート、ワンレンのボブカットの片方を耳にかけたヘアスタイルで、毎日アクティブに客先へ訪問している。

 仕事は早く、知識も豊富で、社内からも顧客からも信頼は厚い。男性顔負けとは彼女のような人を言うのだろう。

 私も上司から浮かないよう黒いスーツを着ることが多い。落ち着いた装いで、上司から資料をもらって社内で入力し、提出する。


 六月一日、再びファミリーマート 2,365円。

 この客、どんだけファミマ行ってんのという感想はとうの昔に捨てた。仕事に必要ないから。

 六月三日 モスバーガー 2,850円。

 六月六日 ローソン 960円。

 六月七日 ドン・キホーテ 1,650円。


 ほぼ家計簿じゃないか。そりゃ、業務のためですと言われればそれまでだけど。


 他人の消費行動を見るのはおぞましい。何か際限のない欲望を見せつけられているような気がする。金額だけをただの数字と考えればいいのに、内容を見てしまう。それを際限なく欲する人の姿として想像してしまう。あなたの仕事はこの欲望を経費に換えてくれるんでしょう、と言われているような気がする。


 書類の数字をただの数字だと思ったらダメだよ。これが顧客の収入であり、その収入の中からやりくりする支出だと考えないと、顧客の役に立つ仕事はできないからね。

 あれは派遣の私も受けさせてもらったけど、正社員向けの研修だった。でもその話を真面目に聞いて真面目にそう考えようとしていた時期が、新卒の頃にはあった。

 今はもう忘れた。考えてられるかよ、と思う。毎日毎日このコンビニ飯のどこが「会議費」? せめて高級料亭で接待してろよ。伊勢丹の地下のたっかいお茶菓子で会議しろよ。

 そんなこと考えないように、学生時代の頃の思いは消した。学校と社会が違うことなんて分かってた。新卒の頃の頑張ろうとしていた自分を消した。

 今必要なことだけすればいい。必要のない気力を使って仕事をするのは、結局仕事全体で見ると無駄が多い。


「すみませんこの領収書、内訳が載ってなくて」

 私が話しかけると、エンターキーを力強く叩いていた上司はパソコンの画面から顔を上げて、「ああ、それ」と言った。

 四十代後半の年季と貫録を備え、ブラウンに染めた髪の根本からまばらに太い白髪が目立つ頭頂部は視界に入れないのが礼儀だと思い、しかし作業中の画面を覗くのも憚られるので、私はデスクに曖昧に視線を落とす。

 上司はいくつかのファイルをごそごそやってから

「この連絡先に直接電話して。そっちで聞いちゃっていいよ」

「私がお電話していいんですか?」

「いいよいいよ。領収書管理してるの社長の奥さんだから。あ、でも、気になった都度都度連絡してるときりないし、全部終わってからまとめて聞くようにしてね」

 上司は快活な口調でそう指示を出すと

「ちゃっちゃか終わらせちゃってね。スピードも質のうちだよ」

 と言い終わらないうちにちゃっちゃか画面に顔を戻した。頭頂部が余計に目に入る。


 全部終わったらっていつですか?

 今日もまた抜けてた領収書が追加で来ましたけど。しわくちゃの、パンパンの財布の中から出てきたようなレシート。

 そう聞き返す代わりに私は「承知しました」という返事だけを返した。にっこり笑ってみせるというトッピングも添えて。


 まあ、聞かなきゃ終わらないからすぐ電話はした。

 取り繋いでもらった声の主は年配の女性だった。上品な話し方だった。上品な人にだって食費はかかるし、経費になると思えばレシートを溜める。

 お世話になっておりますと私が言うと、はいこちらこそ、と相手が返した。ファミリーマートのお弁当、飽きません?


 全ては数字。全ては記号。「おはようございます」という記号。「お世話になっております」という記号。笑顔という記号。あなたに敵意はありませんよ(好意もありませんけど)を伝える記号。

 顔の無い人が文字のない吹き出しの言葉を私にかける。私も空っぽの吹き出しの言葉を返す。顔の無い人は顔のないまま私に笑いかける。私の顔も空白で笑う。


 六月十五日 ダイソー 770円(中身は知らないけどこういうのは全部「消耗品費」でいい)。

 六月十六日 ファミリーマート 1,475円。

 同じく六月十六日 ガスト 3,564円(このへんは相変わらず全部「会議費」)。


 こんな入力AIにやらせろよ、と思うけど機械を導入するより機械的な作業をしてくれる人を雇った方が早いのだろう。それにAIを導入したとして、AIの入力が正しいかをチェックする仕事が私に回ってくるのがオチだろう。


 資料を取りに行ったら西側の資料室にちょうど西日が差していた。何も起こらない毎日にバカバカしいほどの、大げさな夕焼け。眩しい。夕日が顔にあたる。目を細める。夕日って紫外線どれくらいあるんだっけ?

 窓からオレンジに染まる空が見えた。オフィスビルの隙間から、オレンジと黒に定規で切り取った影絵のような夕焼け。遠くの建物の連なりは白っぽく霞んで、雄大な大陸の日没のような幻想さだった。まるで日が沈むということに全力を出し切るような夕焼けだった。

 綺麗。

 その思いを消そうとしていたことに気づいた。

 綺麗なんて考えていたところで、意味ないから。そう考えている自分に気がついた。


 意味がないわけないじゃん!


 時計を見る。定時を過ぎたばかりだった。

 机に出ている資料を全部ファイルに戻した。ファイルを棚に片付け、ひらいていたエクセルデータとシステムを全部閉じた。ペンとマーカーとメモ帳をデスクの引き出しへ納めた。まだまだこれから残業であろう上司がちらりと私の方を見たけど、目を合わせなかった。


 ロッカーにしまいっぱなしだったパンプスを出し、フラットシューズから履き替えた。八センチのピンヒール。八センチ分、目線が上がる。つられて背筋が伸びる。


 だらりと足を引きずっていてはピンヒールでは歩けない。

 自然と背筋と脚に力が入る。忙しくて疲れているからと避けていた。でも、仕事で使う筋力ではない。デスクワークで疲れても、画面の見過ぎで目が疲れてもヒールは履けた。なのに必要ないからと、派遣ならフラットシューズで充分だからと避けていた。


 ヒールを履いて歩く久しぶりの心地を感じる。地面にたった一点で、慎重に繊細に立っているような感覚。


 前によく通勤服を買っていた駅ビルのショップに行くと、「お久しぶりじゃないですか?」と店員に声をかけられた。目を合わすと店員の丁寧にカールした睫毛と、まぶたのさりげないラメが目に入り、今日自分がどんなメイクをしてきたか思い出せない私は曖昧に頷いて目を逸らした。


 私が忘れているうちに、店にはとっくに春が来ていた。

 くすみピンクの春物のニット。グリーンのモチーフが入ったスカーフ。この、丈の長いスプリングコートなんて風をはらんで歩いたら、とても綺麗だろうなと思う。綺麗、そう感じたくて来たのだった。


「春物、いろいろ入ってきているので、是非ご覧になってください」

 トーンの高いよく通る声で、店員は私に言う。はい、と答えた私の声がつられて高くなっていた。


 淡いブルーと綺麗なシルエットに惹かれてテーパードパンツを試着した。

「靴も履いて歩いてみてください」

 店員が試着室から出るよう促す。八センチヒールを履いて数歩歩いてみる。

「お客様、立ち姿が綺麗だからすごくお似合いです」

「パンツの丈とヒールの高さ、合ってますか?」

 姿見を見ながら私が聞くと、店員は栗色の長い巻髪を耳にかけて「ええ」と真剣な顔で頷く。

「もし、フラットシューズを履かれることが多いのなら少し丈を詰めてもいいかもしれませんが、今のヒールの高さであればこれがベストだと思います」

 彼女は服のプロだというような、ショップ店員のプライドを感じさせる口調で私に言った。パンツの丈以外のことまで認められたような気がした。


 淡いブルーのパンツは丁寧に畳まれる。センタープレスを揃え、正面のボタンを合わせ、全体はふんわりとシワにならないように。まるでガラスのケースに並んでいたショートケーキのように扱われ、ビニールの袋に包まれる。肉厚のリボンが持ち手になったショップの紙袋に入れられる。

「お仕事頑張ってください」

 店員が私の目を見て袋を手渡す。ありがとうございます、と目を見て受け取る。


 駅ビルのフロアを上がってお茶をした。夕食もとってしまおうかと思ったけど、久しぶりに家で料理をしようと思う。多めに作りおいて明日のためにとっておく。

 窓際の席は夜の街が見えた。昨日までの私も明日からの私も、あの明かりのひとつになる。見下ろして、綺麗と思う。夜景は最も身近な神の視点。街の血管が煌々と脈を打っていた。


 良い買い物には、どこか儀式めいたところがある。

 これからの自分との約束。

 この買った物を自分が使うのだという、これを自分の物にするのだという約束。これに相応しい自分になるのだという約束。

 それは、必要に迫られて、ただマイナスをゼロに戻すためだけの買い物にはない景色を見せてくれる。


 こっちに合わせていこうと思った。違う、今まで合わせるべきでないものに無理に合わせていたと思った。派遣、という身分に。上司のスタイルに。日々の自分の仕事に。

 良いと思う姿勢で歩き、良いと思う靴を履き、自分自身が良いと思う物を身につけよう。自分で認められる丁寧さで仕事をできるようにしようと思った。今必要かどうかじゃなく、それが必要とされる仕事を目指していこうと思った。私の形で仕事をできるようになろうと思った。

 きっとそれは男性顔負けで働く女性像には程遠いだろう。無意識に、そっちが働く女性のあるべき姿だと考えていた。その姿を私も目指すべきなのだと。


 まあ変なこと言われたらピンヒールで刺してやればいいか。


 ごめんなさい上司。私はあなたを消して仕事をします。私が私を消さないために。

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