第24章:女王はチェックメイトされる

 罪悪感というのは、どうやら鉛みたいに重いらしい。

 

 昨日の放課後、桜井花音に突きつけられた「正しさ」という名の刃。

 その日以来、俺の心は、その鉛の重りに引きずられて、暗く冷たい海の底に沈んだままだった。


『あなたが、美月をおかしくしたんじゃないの?』

『彼女の弱いところにつけ込んで、自分の欲望を満たしてるだけなんじゃないの?』


 花音の涙ながらの言葉が、頭の中で何度も、何度も、リフレインする。

 そのたびに、美術準備室で感じた、あの醜い興奮と、万能感が、猛烈な自己嫌悪となって、俺の胸を締め付けた。


 だから、俺は今日一日、美月さんから逃げ続けた。

 教室で、彼女の視線を感じても、気づかないふりをした。

 

 廊下ですれ違いそうになれば、わざと遠回りをした。

 どんな顔をして、彼女に会えばいいのか、分からなかったからだ。

 

 俺は、彼女の忠実な執事か? それとも、彼女を破滅に導く、ただの変態か?

 

 その答えが、見つからなかった。


 そんな、地獄のような一日が、ようやく終わろうとしていた。

 最後のホームルームが終わるチャイムが、無情に鳴り響く。

 

 俺は、誰よりも早く教室を飛び出して、この息苦しい空間から逃げ出そうとした。


 その時だった。


「――白鳥さん、少し、いいかな」


 その、低く、しかし有無を言わさぬ声に、俺の足は、床に縫い付けられたように、ピタリと止まった。

 氷室雅人。

 彼が、教室の入り口に立ち、まっすぐに、美月さんの席を見つめていた。


 美月さんが、ゆっくりと顔を上げる。

 その表情に、わずかな、しかし明らかな、警戒の色が浮かんだのが見えた。


「生徒会室まで、来てもらいたい。大事な話がある」

 

 氷室の声は、冷たく、感情がこもっていない。

 だが、その瞳の奥には、獲物を前にした狩人のような、ぎらついた光が宿っているのを、俺は見逃さなかった。


 何か、良からぬことが、起ころうとしている。

 俺の本能が、けたたましく、警鐘を鳴らしていた。


 美月さんは、何も言わずに、静かに立ち上がると、氷室の後について、教室を出ていく。

 その、どこか追い詰められたような、小さな背中。


 俺は、咄嗟に、彼女を追いかけようとした。

 執事として、主人を守らなければ。


 だが――俺の足を、再び、花音の言葉が縛り付ける。


『あなたが、彼女をおかしくした』


 俺に、彼女を助ける資格なんて、あるんだろうか。

 俺が行くことで、余計に、彼女を追い詰めてしまうだけなんじゃないだろうか。

 

 俺は、ただ、その場で、拳を強く握りしめることしか、できなかった。


 ◇

 

 結局、俺は、家に帰ることができなかった。

 気づけば、俺の足は、生徒会室のある、特別棟の廊下へと向かっていた。

 物陰に隠れ、息を殺し、ただ、閉ざされた扉を、見つめる。


 中から、声は聞こえない。


 どれくらいの時間が、経っただろうか。

 ガチャリ、と、生徒会室のドアが、ゆっくりと、開いた。


 最初に、出てきたのは、美月さんだった。

 俺は、息を呑んだ。


 その顔は、まるで、能面(のうめん)のようだった。

 何の感情も、浮かんでいない。

 

 いつも俺を翻弄する、小悪魔のような笑みも、時折見せる、か弱い少女の素顔も、そこにはない。

 ただ、底なしの、冷たい虚無だけが、広がっていた。


 彼女は、廊下の物陰に隠れる俺の存在に、気づいているはずなのに、一度も、こちらを見なかった。

 まるで、俺なんて、最初から、そこに存在しないかのように。

 俺の目の前を、ただ、静かに、通り過ぎていく。


 その時、俺は、見た。

 廊下の壁際に、文化祭の告知のために、パンフレットが置かれた長机があった。

 

 美月さんは、その前を通り過ぎる、ほんの一瞬。

 すっ、と、誰にも気づかれない、あまりにも自然な仕草で、そのパンフレットを一枚、抜き取り、自分のカバンの内ポケットに、滑り込ませたのだ。


 あまりに、一瞬の出来事。

 あまりに、意味の分からない、行動。

 

 俺は、その光景を、ただ、呆然と、見送ることしかできなかった。


 やがて、美月さんの姿が、廊下の角に消える。

 入れ替わるように、生徒会室から、氷室会長が出てきた。


 そして、彼は、まっすぐに、俺が隠れている物陰へと、視線を向けた。

 その顔に浮かんでいたのは、怒りでも、軽蔑でもない。


 ――ただ、純粋な、絶対的な、勝利の笑み。


 その、歪んだ唇が、音もなく、動いた。


『――お・わ・り・だ』


 俺は、全身の血が、逆流するような、猛烈な悪寒に襲われた。

 何か、とてつもなく、取り返しのつかないことが、起こってしまった。

 それだけは、確かだった。

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