第25章:ゲームオーバー

 氷室会長の、あの、すべてを嘲笑うかのような、勝利の笑み。

 そして、美月さんの、心が抜け落ちてしまったかのような、能面のような横顔。

 二つの光景が、俺の脳内で、ぐちゃぐちゃに混ざり合って、最悪のイメージとなって渦を巻いている。


 一体、あの閉ざされた生徒会室で、何があったんだ?

 氷室は、美月さんに何をした?

 そして、彼女が、あの時、咄嗟にポケットにしまった、文化祭のパンフレットの意味は……?


 分からない。何も、分からない。

 

 ただ、とてつもなく、取り返しのつかないことが、起こってしまったという、確信だけが、鉛のように、俺の心にのしかかっていた。

 花音の涙も、氷室の敵意も、そして、美月さんの、あの虚ろな瞳も、すべてが、俺のせいなんじゃないか。

 そんな、罪悪感が、俺を苛む。


 その時だった。


 ブブッ、と、スラックスのポケットで、スマホが短く震えた。

 画面に表示された名前に、俺の心臓は、ドクンと、嫌な音を立てて跳ねる。


『白鳥 美月』

『――屋上で待っている』


 それだけ。

 いつもの、悪戯っぽい絵文字も、女王様然とした、回りくどい言い回しもない。

 あまりにも、あまりにも、冷たくて、簡潔な、召集命令。


 行かなきゃ。

 行かなきゃ、話にならない。

 

 彼女と、直接、話をして、何があったのか、確かめなければ。

 そして、もし、彼女が何かに苦しんでいるのなら、今度こそ、俺が、執事として、いや、一人の男として、彼女を守るんだ。

 

 俺は、微かな、しかし、確かな決意を胸に、夕焼けに染まる、あの場所へと、向かった。


 ◇


 屋上の、重い鉄の扉を開ける。

 キィィ、と、錆びた蝶番が、悲鳴のような音を立てた。


 風が、強い。

 生暖かく、湿った風が、俺の頬を、まるで拒絶するかのように、強く打ち付けた。


 美月さんは、そこに、一人で立っていた。

 フェンスの向こう、沈みゆく夕日を背に、その姿は、まるで一枚の、影絵のようだ。

 

 彼女は、俺が来たことに気づいているはずなのに、一度も、こちらを振り返らない。

 ただ、遠く、どこか、この世の果てみたいな場所を、見つめている。


 空気が、重い。

 ここは、俺たちが、初めて、心を通わせたはずの、聖域だったはずなのに。

 

 今は、まるで、断頭台の上みたいに、冷たくて、息が詰まりそうだ。


「……美月さん」

 

 俺は、震える声で、彼女の名前を呼んだ。

 

「あの、氷室会長に、何を……」


 俺が、言い終わる前に。

 彼女は、ゆっくりと、本当に、ゆっくりと、こちらに、顔を向けた。


 そして、俺は、息を呑んだ。

 その顔は、俺が昨日、廊下で見た、あの能面のままだった。

 

 何の感情も、浮かんでいない。

 喜びも、悲しみも、怒りも、何一つ。

 ただ、底なしの、冷たい虚無だけが、その美しい瞳の奥に、広がっていた。


 彼女は、俺の目を、見た。

 いや、見ていない。その視線は、俺の体を、まるで存在しないかのように、すり抜けて、その向こう側の、何もない空間へと、注がれている。


 そして、彼女は、告げた。

 氷のように、冷たい声で。


「――もう、この遊びは終わりよ。あなたには飽きたわ、執事くん」


 ……え?


 頭を、鈍器で、殴られたような、衝撃。

 言葉の、意味が、理解できない。

 

 遊び? 飽きた? なにを、この人は、言って……?


「な、何を……言ってるんですか……? 俺たち、昨日は、あんなに……」

「そうね。昨日は、楽しかったわ」


 彼女は、淡々と、続ける。

 その声には、抑揚というものが、一切、存在しない。


「でも、もう、いいの。満足したから」

「……っ!」

「理由なんてないわ。ただ、つまらなくなっただけ。執事ごっこも、あなたの、いちいち大袈裟な反応を見るのも、もう、全部」


 つまらなくなった?

 あの、カフェでの、笑顔も?

 俺の名前を呼んでくれた、あの声も?

 俺だけに、見せてくれた、あの弱い素顔も?

 全部、ただの、「遊び」だったと、言うのか?


「嘘だ……」

 

 俺の口から、か細い声が、漏れた。

 

「嘘だ、そんなはず、ない……!」


 俺が、一歩、彼女に近づこうとすると。

 彼女は、まるで、汚いものでも見るかのような、冷たい目で、俺を、見据えた。

 

 そして、言い放った。

 俺の、心を、完全に、砕き折る、最後の一言を。


「……だから、もう私の前に現れないで。目障りよ」


 ――その瞬間。

 俺の、世界から、音が、消えた。


 彼女は、俺に、背を向けた。

 一度も、振り返ることなく。

 

 ただ、まっすぐに、屋上の出口へと、歩いていく。

 その、小さな背中が、夕日の赤い光の中に、溶けていくように、小さくなっていく。


 待って。

 行かないで。

 嘘だって、言ってくれ。


 そう、叫びたいのに、喉が、焼けるように、痛くて、声が出ない。

 足が、まるで、地面に根を張ったかのように、一歩も、動かない。


 バタン。


 鉄の扉が、無情に、閉まる音。

 その音が、俺たちの関係の、完全な、終わりを、告げていた。


 俺は一人、屋上に、残される。

 西の空は、まるで、俺の心を抉った、傷口のように、どす黒い、赤色に、燃えている。


 ああ、そうか。

 全部、俺の、勘違いだったのか。


 陰キャの俺が、学園のアイドルの、特別な存在になれたなんて、そんな、都合のいい夢を見ていただけだったんだ。


 ガクン、と、膝から、力が抜けた。

 俺は、その場に、崩れ落ちる。


 冷たい、コンクリートの感触。

 頬を撫でる、虚しい、風の音。


 胸の奥で、何かが、音を立てて、砕け散った。

 もう、何も、残っていなかった。

 

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