第23章:正しさの刃

 美術準備室での、あの濃密な儀式。

 俺の言葉で、美月さんの体が、心が、乱れて、蕩けていく。

 

 彼女のすべてを、俺だけが知っている。

 俺だけが、理解している。

 

 その、脳が焼けるような、圧倒的な全能感と、背徳的な優越感。

 俺は、その甘美な余韻に浸りながら、一人、昇降口で靴を履き替えていた。


 俺と美月さんは、もはや単なる主人と執事じゃない。

 唯一無二の、魂で結ばれた共犯者なんだ。

 

 そんな万能感に、俺の心は満たされていた。


「――田中くん」


 背後から、不意に、名前を呼ばれた。

 

 その声は、震えていた。

 怒りとも、悲しみともつかない、切羽詰まった響き。


 振り返ると、そこに立っていたのは、桜井花音だった。


「ちょっと、話があるんだけど。いいかしら」


 彼女の目は、少し赤く腫れている。

 いつもの、太陽みたいな明るい笑顔は、どこにもない。

 

 俺は、嫌な予感を覚えながらも、黙って彼女の後に続いた。


 ◇


 連れてこられたのは、体育館の裏手、今は使われていない焼却炉の前。

 西日が、錆びた煙突を、血のように赤く染めている。


「単刀直入に聞くわ」


 俺に向き直った花音は、その瞳に、涙をいっぱいに溜めていた。

 そして、絞り出すような声で、言った。


「お願いだから、もう、美月を解放してあげて!」

「……え?」


 予想外の言葉に、俺は、思考が停止する。

 

 解放? 俺が、美月さんを?


「あなたが、美月をおかしくしたんでしょう!」

「ち、違う! 俺はそんな……!」

「違わない!」


 俺の言葉を、彼女の悲痛な叫びが遮る。

 

「最近の美月、ずっと変だった! いつも何かに怯えてるみたいに、周りを気にして……。完璧な笑顔を浮かべてるけど、その目が、全然笑ってない時があるの! あの日の体育の時だってそう! 体調が悪いだけの子が見せる顔じゃなかった! まるで、何かに、必死に、必死に耐えてるみたいで……見てるこっちが、苦しくなるくらい……!」


 違うんだ、桜井さん。

 あれは、苦痛だけじゃない。その奥には、彼女だけの、甘美な快感があって……。

 

 そう、叫びたいのに、声が出ない。

 言えるわけがない。

 俺たちの、あまりにも倒錯した、秘密のゲームのことは。


「あなたと話すようになってからよ! 美月が、あんな危なっかしい顔をするようになったのは! ねぇ、一体、彼女に何をしたの!? 何をさせてるの!?」


 花音の瞳から、大粒の涙が、ぽろぽろと零れ落ちる。

 親友を、心の底から心配する、純粋な涙。

 その、あまりにもまっすぐな善意が、刃物のように、俺の胸に突き刺さった。


 俺は、何も言い返せない。

 

 だって、彼女の言うことは、何も知らない人間の視点から見れば、全て、寸分違わぬ「真実」なのだから。

 俺たちの「実験」が、美月さんに、倒錯的な快感だけでなく、多大なストレスを与えていることも、また、事実なのだ。


 俺が、唇を噛み締め、俯いていると、花音は、さらに、追い打ちをかけるような言葉を、俺に突きつけた。

 それは、正しさという、最も鋭利な、刃だった。


「……あなたは、美月のためになってるつもりなのかもしれないけど」

「……」

「それって、ただ、彼女の弱いところや、変なところに、あなた自身がつけ込んで、自分の欲望を満たしてるだけなんじゃないの?」


 ――ドクン。


 心臓が、嫌な音を立てて、大きく軋んだ。

 見抜かれている。

 俺の、心の、最も奥底にある、醜い部分を。


 そうだ。

 

 俺は、本当に、彼女のためを思っていたのか?

 彼女の秘密を守る、忠実な執事?

 違うんじゃないか?


 本当は、学園のアイドルを、自分だけが知る秘密で支配し、その倒錯した姿を見て、興奮していただけなんじゃないのか?

 彼女の弱さにつけ込んで、自分の、陰キャとしての鬱屈した欲望を、満たしていただけなんじゃないのか?


「……違う……」


 か細い声で、否定する。

 だが、その声は、誰よりも、自分自身に、言い聞かせているようだった。


「……お願い。美月を、元の、完璧で、キラキラしてた、私の大好きな美月に、返して……」


 花音は、それだけ言うと、嗚咽を漏らしながら、その場に崩れ落ちた。

 その、小さな背中が、夕日に照らされて、痛々しいほど、震えている。


 俺は、彼女にかけるべき言葉を、何一つ、見つけられない。

 ただ、立ち尽くすことしか、できなかった。


 さっきまで、あれほど俺を満たしていた、万能感と、優越感は、跡形もなく消え去っていた。

 代わりに胸の中に渦巻いているのは、自分の欲望の醜さに対する、強烈な自己嫌悪と、そして、美月さんを傷つけているのかもしれないという、重い、重い、罪悪感。


 俺は、本当に、彼女の執事で、いていいのだろうか。

 重い足取りで、一人、家路につく。

 西の空が、まるで、俺の心を映したかのように、どす黒い、赤色に、染まっていた。

 

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