第21章:仮面の下の素顔

 実験は完了した。

 だが、俺の心臓は、まだバックンバックンと、暴れ馬のように脈打ち続けている。

 それは、さっきまでの極度の緊張のせいか、それとも、目の前で悪戯っぽく微笑む、この美しすぎる女王様のせいか。


「私たちのデートは、まだ始まったばかりよ?」


 美月さんのその言葉に、俺は、もはや思考を放棄して、こくりと頷くことしかできなかった。


 彼女に導かれるまま、俺たちはショッピングモールの高層階にある、お洒落なカフェに入った。

 窓際の席からは、ミニチュアみたいな都心の街並みが一望できる。

 ガラス張りの店内には、午後の柔らかな日差しがたっぷりと降り注ぎ、さっきまでの喧騒が嘘のように、静かで、落ち着いた時間が流れていた。


 俺たちは、向かい合って席に着く。

 テーブルの上には、運ばれてきたばかりの、ストロベリータルトと、アイスティー。

 その光景は、どこからどう見ても、ごく普通の、カップルのデートそのものだ。


「……あの、美月さん」

「なあに? 優人くん」


 うぐっ……!

 彼女が、ごく自然に、俺の名前を……!

 俺は、動揺を隠すように、意味もなくアイスティーのグラスを指でなぞる。


「いえ、その……執事としてではなく、その……恋人役として、何か、お望みのことは……」

「うふふ、まだ執事の顔が抜けないのね」


 美月さんは、楽しそうにくすくす笑うと、フォークでタルトの先端を小さく切り取った。

 

「今日はもう、いいのよ。あなたは、執事じゃなくて、ただの田中優人くん。私は、ただの白鳥美月。……だから、普通に、お話ししましょう?」


 その、あまりにも優しい声と、穏やかな微笑みに、俺の心臓は、またしても不名誉な音を立てて、きゅんと締め付けられた。


 それから、俺たちは、本当に、ごく普通の会話をした。

 

 俺が、好きなB級ホラー映画の話をすると、美月さんは意外にも「ああ、その監督の、初期の自主制作フィルムも、なかなか面白いわよ」なんて、俺よりも遥かにディープな知識を披露してきたり。

 彼女が好きなクラシック音楽の話を、俺が全く分からずにいると、「じゃあ、今度、私のおすすめの曲を、あなたのために選んであげる」と、嬉しそうに微笑んだり。


 知らなかった。

 美月さんが、こんなにも、いろんなことに興味を持っていて、こんなにも、楽しそうに笑うなんて。

 

 俺が知っていたのは、学校で見せる、完璧で、どこか近寄りがたい「白鳥美月」という偶像だけだった。

 でも、今、俺の目の前にいるのは、好奇心旺盛で、よく笑う、一人の、可愛らしい女の子だ。


 その事実に、胸の奥が、温かくなるのを感じる。

 花音の言葉が、まだ心のどこかに棘のように刺さってはいるけれど、それでも、この時間が、たまらなく愛おしいと思った。


 しばらく、会話が途切れる。

 心地よい沈黙。

 

 俺たちは、ただ、窓の外に広がる、きらきらと輝く街の景色を眺めていた。


「……ねえ、優人くん」


 ふと、美月さんが、ポツリと呟いた。

 その声には、さっきまでの明るさはなく、どこか、儚げな響きが混じっていた。


「私ね、時々、息苦しくなるの。『完璧な白鳥美月』でいることに」


 その横顔は、夕暮れの光を浴びて、どこか寂しげに見えた。


「家でも、学校でも、みんなが、私に『完璧』を求める。勉強も、運動も、立ち居振る舞いも、全部。……それに、応えなきゃって、ずっと思ってきた。でも、本当の私は、そんなに、強くも、綺麗でもないのに」


 女王様の仮面の下に隠されていた、一人の少女の、弱々しい本音。

 俺は、かけるべき言葉が見つからず、ただ、黙って彼女の言葉に耳を傾ける。


「でも、あなたといる時だけは……。私の、あんな、汚くて、変な部分を見ても、あなたは……『綺麗だ』って言ってくれた。……あの時、どれだけ、救われた気持ちになったか、あなたには分からないでしょうね」


 彼女の大きな瞳が、わずかに潤んでいるのが見えた。

 俺の胸が、チクリと痛む。

 俺は、無意識のうちに、口を開いていた。


「……完璧じゃなくたって、いいじゃないですか」

「え……?」

「変なところがあったって、汚いところがあったって……それも全部含めて、美月さんは、美月さんですよ。俺は……その、そんな美月さんが……」


 好きだ、と。

 そう、言いかけた時だった。


 美月さんの顔が、ふっと、花が咲くように、綻んだ。

 それは、俺が今まで見た、どんな彼女の笑顔よりも、綺麗で、愛おしくて、そして、心からの笑顔だった。


「……ありがとう、優人くん」


 その声は、震えていた。

 その、名前の響きに、俺は、完全に、心を奪われた。

 

 ああ、俺は、この人のことが、本当に、好きなんだ。

 完璧な女王様も、倒錯した変態も、そして、今、目の前で泣きそうに笑っている、この弱い少女も、全部。


 その時だった。


 ブブブッ……。


 テーブルの上の、俺のスマホが、短く震えた。

 俺は、不審に思いながら、スマホの画面をタップする。


 ――だが、そこに表示されたものに、俺の全身の血は、一瞬で凍りついた。


 差出人『不明』


 そして、添付されていた一枚の写真。


 それは、まさに、今、このカフェで、俺と美月さんが、笑い合っている姿を、どこか遠くから、盗撮した、鮮明な写真だった。


 さっきまでの、温かくて、甘い空気が、嘘のように消え去っていく。

 代わりに、背筋を、氷のような悪寒が、駆け上った。


 見られていた……?

 俺と、美月さんは……いったい、誰に?


 俺は、血の気の引いた顔で、画面を、ただ、見つめることしかできなかった。

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