第20章:初デート
「あなたが、美月をおかしくしてるんじゃないの?」
先週、桜井花音に突きつけられた、涙ながらの「正論」。
その言葉が、まるで呪いのように、俺の頭の中でずっと反響している。
俺は、本当に、白鳥美月さんのためになっているんだろうか。
それとも、ただの共犯者として、彼女を破滅に導いているだけなんじゃないだろうか……。
そんな葛藤で、鉛のように重くなった心を引きずりながら、俺は指定された待ち合わせ場所、都心の巨大な駅ビル前に立っていた。
土曜日の昼下がり。
人の波が、絶えず俺の横を通り過ぎていく。
「――遅いじゃない、執事くん」
不意に、鼓膜を甘く震わせる声がして、ハッと顔を上げる。
そこに立っていたのは、俺の思考を支配する、絶対的な女王様だった。
「し、白鳥さん……」
「今日は、私のことを『美月』と呼びなさい。いいわね?」
その命令に、俺は息を呑んだ。
今日の彼女は、いつもの制服とは全く違う、完璧な私服姿だった。
ふわりとした、肩のラインが覗くオフショルダーの白いブラウス。風に揺れる、淡いラベンダー色のフレアスカート。
その下から伸びる、どこまでも白く滑らかな脚。
その姿は、もはやアイドルというより、ファッション雑誌から抜け出してきた、トップモデルそのものだ。
それに比べて俺は、ヨレたTシャツに、色褪せたジーパンという、陰キャの休日標準装備。
あまりの格差に、俺は地面に吸い込まれたくなる。
「さあ、行きましょうか」
美月さんは、俺の葛藤などお構いなしに、にっこりと微笑むと、駅ビルに併設された、巨大なショッピングモールへと歩き出した。
俺は、慌ててその後を追う。
「あの、美月さん……今日は、一体……?」
「決まっているでしょう? 特別な『実技試験』をするのよ」
彼女は、まるで悪戯を企む子供のように、キラキラと瞳を輝かせている。
そして、一本のペットボトルを俺に見せつけた。
ラベルには「利尿作用を促進するハーブブレンドティー」と、不穏な文字が躍っている。
「これを、今から全部飲むわ。そして、私たちは、あそこのお店に入るの」
彼女が指差したのは、ガラス張りの、いかにも高級そうなアパレルショップだった。
「今日のあなたの役割は、『私の恋人』。恋人として、私と一緒に服を選び、完璧にエスコートすること。そして……」
彼女は、俺にだけ聞こえるように、声を潜めて囁いた。
「私が、限界を迎える、その瞬間を見極めなさい。合図は、私が、左の耳たぶに、そっと触れた時。合図を見たら、あなたは、60秒以内に、私をトイレまで連れて行くの。もし失敗したら……どうなるか、分かってるわよね?」
その瞳には、抗いがたい、妖艶な光が宿っていた。
公衆の面前での、限界ゲーム。
あまりにも悪趣味で、背徳的で、そして……ゾクゾクするほど、スリリングな指令だった。
◇
高級ブティックの中は、静かで、洗練された香水の匂いが満ちていた。
俺と美月さんが入っていくと、すぐに、完璧な笑顔を浮かべた女性店員が、吸い寄せられるように近づいてきた。
「いらっしゃいませ。お客様、とてもお綺麗でいらっしゃいますね。よろしければ、何かお探しするお手伝いをさせていただけますでしょうか」
「ええ、お願いしようかしら。彼が、私に似合うワンピースを選んでくれるそうなので」
美月さんは、完璧な恋人の顔で、俺の腕に、そっと自分の腕を絡めてきた。
柔らかく、温かい感触が、Tシャツ越しに伝わってきて、俺の心臓は、警鐘のように激しく鳴り響く。
「か、彼女に、似合うような……ものを……」
「かしこまりました」
こうして、地獄の、いや、天国か? とにかく、前代未聞の「デート」が始まった。
美月さんは、次々とワンピースを試着していく。
そのたびに、俺は「あ、すごく似合ってます」「こっちの色も、いいんじゃないかな」と、しどろもどろになりながら、恋人役を演じなければならない。
だが、俺の意識の9割は、彼女の、その些細な変化に集中していた。
――試着室から出てきた時、ほんのわずかに、眉間に皺が寄った。
――店員と話しながら、無意識に、太ももをぎゅっと擦り合わせるような動きをした。
――俺と目が合った瞬間、その瞳が、一瞬だけ、潤んで、助けを求めるような色に変わった。
来てる。確実に、その時は、近づいている。
俺の額に、じわりと汗が滲む。
だが、最大の障壁は、あの笑顔を絶やさない女性店員だ。
彼女は、美月さんの隣にぴったりと張り付き、次から次へと商品を勧めてくる。
これでは、逃げられない。
どうする、どうすればいい……!
俺が焦り始めた、その時だった。
鏡の前で、新しいワンピースの裾を直していた美月さんが、ふと、髪をかきあげる。
そして、その白い指が――彼女の左の、小さな耳たぶに、そっと、触れた。
――来た!
俺の全身に、電流が走る。
思考よりも先に、体が動いていた。
俺は、すぐそばのハンガーにかかっていた、派手なスカーフをひっつかむ。
「――美月! 見てくれよ、このスカーフ! 君に絶対似合うと思うんだけど!」
俺は、わざと、フロアに響き渡るような大声を出した。
店員の意識が、一瞬だけ、俺が手にしたスカーフへと向く。
その、0.5秒にも満たない、一瞬の隙。
俺は、美月さんの、冷や汗でわずかに湿った、華奢な手首を、強く掴んだ。
「きゃっ……!」
「美月、急に気分が悪くなったんだろ? 無理すんなよ」
俺は、彼女をぐいっと引き寄せ、完璧な恋人ムーブで、その体を支えるふりをする。
そして、唖然としている店員に向かって、焦った表情で言い放った。
「すいません! 彼女、ちょっと貧血気味みたいで!」
俺は、それだけ言うと、美月さんの体を半ば引きずるようにして、全速力で店を飛び出した。
背後で、店員の「えっ、あ、お客様!?」という、困惑した声が聞こえた気がした。
◇
数分後。
モールの最も奥まった場所にある、女子トイレの前。
壁にもたれかかり、荒い息を整えている俺の前に、個室から、美月さんが出てきた。
その顔は、極度の緊張と、我慢と、そして解放感からか、熟れた果実のように、真っ赤に上気している。
瞳は、尋常じゃないくらい潤んで、キラキラと輝いていた。
「……はぁ……はぁ……最高、だったわ……」
彼女は、ふらつく足取りで俺に近づくと、とろけるような表情で、俺を見上げた。
「あなた、最高の執事であり……最高の、恋人役ね」
その、あまりにも扇情的な姿と、甘い声に、俺の理性のタガは、完全に吹き飛んだ。
「実験は完了。でも……」
彼女は、悪戯っぽく、ぺろりと唇を舐める。
「私たちのデートは、まだ始まったばかりよ?」
その言葉は、次なる波乱を告げる、甘美な悪魔の囁きのように、俺の鼓膜を震わせた。
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