第5話 君のいない桜の木の下で
三月の終わり、町に春が戻ってきた。
暖かな風が吹き、空はあのときと同じように青く澄んでいた。
学校の制服が冬服から移り変わる頃、榊原悠真はただ一人、あの丘へと向かっていた。
重度の相貌失認――
人の顔が覚えられない自分にとって、記憶というものはいつも曖昧だった。
けれど、彼女の存在だけは、不思議と薄れなかった。
あの日の花火。
秋の紅葉。
雪の中で交わした“約束”。
「春になったら、またここで会おう」
丘に着くと、あの桜の木が、まるで約束を守るように――満開に咲いていた。
枝という枝が、淡い薄紅であふれている。
春の光が透けて、風にゆらゆらと舞う花びらが、空からこぼれ落ちてくる。
でも、そこに彼女の姿はなかった。
ただ、風だけが吹いていた。
悠真はベンチに腰を下ろし、ポケットから一通の封筒を取り出した。
病院から届いた、彼女の最後の手紙だった。
「悠真くんへ
この手紙を読む頃、私はもういないかもしれません。
本当は、ちゃんと“また会おうね”って笑って言いたかったけど、それができないかもしれないと思ったから、こうして書いておきます。
まず、ありがとう。あの夏の日、私に声をかけてくれて。
丘の上で花火を見た日、秋に紅葉を見た日、そして冬の雪の下で……あなたと一緒にいた時間は、私の人生で一番“生きてる”と感じられた時間でした。
あなたは、人の顔が覚えられないと言っていたね。
でもね、不思議だった。
私が来たとき、ちゃんと“私”として迎えてくれて。
名前じゃなくて、顔でもなくて、“心”で見てくれているんだって、そう思えた。
私はずっと、病気のことを恨んでたよ。
未来も夢も奪っていくって。
でも、悠真くんと会ってからは、時間が限られているからこそ、大切にできるものがあるんだって気づいた。
だから、最後にお願いがあります。
どうか、来年も再来年も――この桜を見に来てください。
そして、私がいなくても、笑ってください。
だって、桜はきっと、何年経っても、私たちの春を咲かせてくれるから。
また会おうね。桜の木の下で。
佐原沙月」
悠真は、手紙を読み終えたあと、そっと目を閉じた。
涙は出なかった。ただ、心の奥がじんわりと熱くなるような、そんな感覚だった。
桜が、ひとひら、膝の上に舞い落ちる。
風に吹かれ、次の花びらが肩に触れる。
まるで、彼女がすぐ隣にいるようだった。
「……また来るよ、君が来てくれるまで、僕は何時までも待ち続けるよ」
そうつぶやいて、悠真は立ち上がった。
どこまでも続く、春の光。
空いっぱいに広がる桜の花。
それは、たしかに――彼女の“代わりに咲いた想い”だった。
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