第31話
静かな夜だった。ことりとも音が聞こえない。奏園そのものが眠りに落ちでもしたような、未明の湖のような重さを感じた。
燭台の炎も、水面のように揺れている。それでいて肌に感じられる風はない。
静かだ。
「千璃。決めたんだね」
「はい」
久蒔の顔に笑みはなかった。いつもと変わらぬ厳しい声音。千璃は畳に両手をつく。教えられた、正しい作法に則って。
「今まで、長いあいだ……」
言葉に詰まった。涙が落ちた。
ぐっと、それを堪えた。
「お世話になりました……」
目を閉じ、深く頭を下げた。けれどにじんで見えた自分の手に、自らの成長を知る。
久蒔に抱かれて、この奏園に来た。大きくなったのだ。大きくなってしまった、と思う。
もう声にはならない。戻れるものなら、と思わないわけではない。出て行くことを決めたのは自分の意思であっても、哀しみがそれで消えるわけではない。
しばらくは戦わなくてはならないだろう。どうにもならない寂しさや、やはり選択を迷う気持ちと。
後悔もするだろうと思う。覚悟はしたつもりでいても、すべてを拭えるとは思えない。
覚悟が足りないということかもしれない。けれど千璃はむしろその気持ちを大切にしたいとも思った。
この園を愛しく思う、その証のように、懐かしさに震えたいと。
千璃はもう一度、胸で唱えた。
お世話になりました。おかあさん。
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