第3話 対向者

 永い橋を進み続けている。

 僕はこの橋を渡るのは初めてで、今、橋のどのくらいにいるのかわからない。どれほど進んだのだろう。

 朝もやが、晴れてきた。それでも、少し薄くなった限りでしかない。白いもやが反対側まで見えるようになっていた。

 橋の対面、向こう側から、近づくぼやけたシルエットが浮かんでくる。

 ――不思議だった。

 黒い影のように見えるはずの輪郭が、なにやら赤みがかって見える。

 血にまみれているのかもしれない。近づくにつれて人影は次第に本来の色を取り戻す。そこで初めて、女だと分かった。

 彼女の姿を目の端で見る。女は僕などに目もくれなかった。僕のいた街の方向へと視線を固定していた。

 まるで、彼女を幽霊のようだと思った。だから、僕を気にしないのかもしれない。そして、もしかしたら、幽霊は僕なのかもしれない。

 そんな空想を抱いている自分に気づいて、慌てて視線を前に戻す。

 奇妙な女だ。率直に、そう思った。

 すれ違いざま、対向で足を止め、そして静かに体を向けた。

 僕もなぜだか、足を止めてしまう。

「あなた、どこから来たの?」

 落ち着きのある若い女性の声が朝もやと空気を通じて僕の耳に届く。

 この橋は僕の街から、別の街をつなぐだけの一本道。分岐なんてものは当然ない。

「どこって……僕の街。あなたが向かう方から来たに決まっている」

 彼女の静かで強いまなざしが僕を捕えた。先を行くドーベルマンが促すように、一声、吠える。それでも、両脚……体全体は固まったように動かない。

 僕の視線は反対側に立つ彼女に釘付けになっている。ぼけた輪郭、捕らえどころのない姿。

 彼女の言葉を待った。互いに何も言わなかった。困っているのかもしれないが、もやが少し濃くなって、表情を読むのは難しかった。

「この先には、何も無かった。――何も。あなたの街なんて無いよ」

 今度は、どこか少年のニュアンスを思い出す声となって聞こえてくる。

「それでも、後ろの町から来た。それだけは事実なんだけどな……」

 彼女は嗤う。どんな顔をしているのだろうと目を凝らすたびに、橋のもやは僕の邪魔をするように流れて濃くなる。

 待ちかねたドーベルマンが僕の足元に寄ってくる。僕には向けなかった、穏やかな顔つき。

「その仔、なんていう名前なの?」

「何も。ただ、犬はこいつだけだ。だから別に名前なんていいだろう」

 彼女は一歩、僕に近づいてくる。

 同時に風が吹いた。もやが一瞬晴れて、女の表情が見える。険しい形相。鋭い怒りが、眼差しに現れている。

 また一歩。

 再び風が靄を呼ぶ。女の刺すような怒りが収まった。

 ドーベルマンは女と僕の中間に位置取って、チラリと横顔を向けてくる。

 ――彼にとっては名前なんてものはどうでもよかったのかもしれない。それでも、彼女が「名前」を教えたから、自分を知ってしまったのかもしれない。

 彼女は一歩、黒犬に近づいて、屈んで、頭を優しくなでる。

 その時、ドーベルマンの名前を考え始めていた。

 囁くような声で犬に語る女。

「……名前、見つかるといいね」

 彼女の声は僕にも聞かせているようだった。そして、僕に顔を向ける。名前を尋ねられている。そんな気がした。

「――僕は」

 名乗ろうとするものの、頭の中がノイズがかったように、思い出せない。

 女は口端を上げて笑った。

 ――あなたもね。

 僕は濃くなっていくもやの中で、シャツのタバコの形を確認した。

「吸っても?」

 女は何も言わなかったが、「お好きにどうぞ」そんな風に言われた気がした。

 取り出し、咥え、火をつける。

 煙はやはり、もやに混ざり、境目が分からなくなった。

「あなた達の名前を覚えてない。名前はない。――見つかるといいね、あなたたち」

 そんな言葉を聞いて、彼女の名前を尋ねようとした。

 犬が、デニムのすそを噛んで引っ張る。

 名残惜しかったが犬に促されて先へと進む。

 歩きながら、タバコを吸っていると、煙を吐くたび、もやが僕の中へと入り込んでくる気がした。

 ――奇妙な女だった。タバコをラバーの靴裏でもみ消して、その場に吸殻を置き去った。

 僕の足跡。名残。証明のようなもの。

 ――うしろで感じる、気配と足音。

「あなたの存在を拾ってあげる」

 僕が振り向くと、彼女は屈んで、吸がらを拾い上げた。僕に見せつけるように、フィルターを小さく掲げている。彼女の表情は、やはり掴み切れずにいた。

 僕の名前は分からない。犬の名前も。彼女は名乗らなかった。

 名前を思い出し、見つけることはあるのだろうか――それを見つけた時に、この朝もやが晴れる。そんな気がした。

 ゆっくりと歩く。

 僕と一定の距離を空けるながら、同期する足音を背後に聞く。

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