第4話 手帳とバーミリオンインク

 僕は女を背後につれ、そして黒犬に導かれるように濃いもやの橋を歩き続ける。

 一定のリズム、女と僕の呼吸が合うように足音が立つ。それでも鈍く、もやの中にかき消されていく。音を吸収してしまうのではないだろうか。

 そんなことをぼんやりと思っていると、先を行くドーベルマンが鼻先を地面の方に向けている。何か落ちている、そしてその匂いを確認していた。鼻孔をヒクつかせている様子が、獣らしかった。

 僕が近づくのに気づいて、こちらに鼻先を向ける。

 一つ、鳴いた。

 彼の鳴き声は残響を伴い、そして欄干を微かに震わせた。

 橋の足元は正方形のタイルが市松模様を作っている。くすんだ微かな赤と灰のタイル。それらは四つずつの大きな矩形。繰り返し、繰り返し。変わることのない模様がずっと続いて本当に前へと進んでいるのかわからなくなる。

 ドーベルマンの小さな足下に、革表紙の手帳が無造作に落ちていた。捨ててあるのかもしれないと思った。人気もなく、誰のものなのかもわからない。

 なめされた革は、使い込まれたように手垢や爪の跡が付いていた。

 拾い上げて、中の洋紙の束をパラパラとめくった。

 かすかに乳白色の紙は何も描かれておらず、書かれてもなかった。

 僕がその手帳を確認しているうちに、女が僕の元へたどり着いた。

 犬も、洋紙かなめし革の匂いが気になっているのか、僕を見上げてクンクン鼻を動かしている。

 女はあの時よりも低い声で言った。

「ふうん、何も書かれてないのね」

「何か、書くものは持ってる?」

 聞かれた彼女は嬉しそうに微かに唇を反らした。

 僕が広げたページを指して、捲る手を止めさせた。指先を上げると、爪の間からじわり、と紅い血が滲み出て、そして拾った手帳に赤い飛沫が付着する。

 きっと女は、これで書けばいい、そんなことを言っているのだ。

「何を、書くの?」

「……別になにも」

 女はつまらなそうだったが、なぜか笑っていた。

 僕は彼女の零した血を指先でなぞった。綺麗で妖しい赤黒いグラデーションが、鈍い靄の中に冴えた。

 爪の先で女のバーミリオンのインクを掻いた。なぜだか、女の顔を描いてみようと思った。

 ――止まって。僕は彼女の真正面に向き直り、そして腕をイーゼル代わりに立てた。

 それでも、女は立ち止まることもなく、僕の横をすり抜けた。細い線は爪で。頬の柔らかさは指の腹。

 僕はほとんど後ずさりながら、彼女の顔を夢中で描いた。

 何度も、何度も、角度が変わる度に彼女の顔を捉えなおす。正面。あるいは横、そして斜め。何度やりなおそうとしても、目鼻がつぶれ、滲んでしまう。

 犬は少し進んでは振り返り、そしてこちらを見つめる。近づくと、再び小走りに歩き始める。

 ――振り返る視線は僕の体をすり抜けて、きっと女を見定めているのだろう。

「出来上がった?」

 僕は見せるのが恥ずかしかった。

 一番うまくいったページだけを見せて、彼女は嗤う。

 彼女は静かに僕の腕から手帳を取り去る。抵抗するもないように成されるがままに奪い取れられた、そんな気がした。

 ――こっちの方がいいじゃない。

 彼女は最初のページを僕に見せた。僕が描いた初めの似顔絵だ。輪郭と、口元だけのスケッチ。それを掲げて笑う女の顔は、スケッチの表情そっくりだった、なぜか、そんな風に思ってしまった。

 なんだか、僕は泣きそうになる。

 僕は彼女に、とっくに出会えていたのだ。そんな気がした。

 僕の片頬に一筋の熱さがこぼれる。それは外気に触れて、すぐに冷たさとなった。

 袖口で涙をぬぐう僕の足元に黒い犬がすり寄って、白い吐息をリズムよく吐く。

 僕は目元を覆ったまましゃがみこんで、犬の頭を撫でた。

 少し愛おしくなる。

 ――それじゃ、これは要らないね。

 女の声がすぐそばで聞こえたかと思うと、ぺージを破って海の中へバラまいた。

 散る紙片は広がって、すぐに靄に溶け込むように消えていく。

 未だ乾かない赤黒いインクを使って、彼の名前の候補をいくつかしたためた。

 手帳を閉じると、ダークブラウンの革表紙と、女の血が混じって、深い黒へと変わっている。

 それはまるで、犬と女の色が混ざったように感じられた。

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