第39話:戦火の前の求婚、悪役令嬢の矜持
ワイン樽の深い影の中、引き裂かれる運命を前に交わされた口づけ。アルクはゆっくりと唇を離したが、その腕はセレスを抱きしめたままだった。彼女の肩が微かに震えている。
「セレス、君との想いが重なった今だからこそ、言わなければならないことがある」
アルクはそっとセレスの顔を覗き込む。彼女の澄んだ碧い瞳には、光る涙の粒が浮かんでいた。その美しさと、彼女が背負う悲しみに胸を打たれながら、アルクはその涙を指で優しく拭うと、一つの提案をした。それは、この絶望的な状況下で、唯一未来を繋ぎ止めるための、彼の魂からの誓いだった。
「美しきわが想い人よ、僕と将来を共にする伴侶になってくれないか?」
これから互いに敵として分かれ、戦場で相まみえるかもしれない。まさにその時に、未来を誓うという矛盾。だが、その言葉に迷いはなく、セレスの全てを受け入れ、どんな困難があろうと必ず彼女の元へ戻るという、アルクの揺るぎない覚悟が宿っていた。
セレスは一瞬、驚きに目を見開いた。しかし、彼の真摯な瞳に宿る覚悟を悟ると、その唇にふわりと笑みが浮かんだ。それは、いつものような「悪役令嬢」の冷笑ではない。愛する男の覚悟を受け止めた、強く、そして気品に満ちた微笑みだった。
「良いわよ」
セレスは、はっきりと頷いた。アルクのこのプロポーズに潜む、二人の愛の繋がり以上に何かを求めている意図を理解していた。
「でも、このような地下の暗い場所ではなく、もっと私を盛り上げてちょうだい?」
彼女は悪戯っぽく瞳を輝かせ、アルクの胸を人差し指でつんと突く。
「こう見えても私、悪役令嬢としてその名を轟かせ、数多の注目の的なのですよ? こんな薄暗い場所での密やかな約束では、私の矜持が許しませんわ」
自分の真意のその意味を理解してその意図を汲み取り頷く彼女の挑発を受けて、アルクもまた微笑んだ。そうだ、彼女はこういう女性だった。絶望の淵にいても決して気高さを失わず、逆境さえも自らの舞台に変えてしまう。そんな彼女だからこそ、自分は惹かれたのだ。
「…わかった。最大級の敬意をもって盛大に…世界中の誰もが嫉妬するほどの舞台を用意すると誓おう」
「ふふ、期待しているわ。私の王子様」
戦火の業火が、天を焼き尽くさんとその勢いを増していた。ユグドラル王国では第一王子レオンハルトの号令一下、魔族討伐の大軍が着々と組織され、魔界ではその宣戦布告に応じ、好戦派が狂喜乱舞하며戦の準備を進めていた。双方の民は、長年のプロパガンダによって植え付けられた敵への憎悪を煽られ、その巨大なうねりは、もはや誰にも止められないかに思われた。
だが、その混沌のただ中で、二つの魂は互いの存在を確かな光として捉えていた。魔界へ帰還した王子アルクヴィスと、人間界で孤軍奮闘する侯爵令嬢セレスティーヌ。彼らは、引き裂かれた世界を前に、一つの大博打に打って出ることを決意する。
それは、あまりにも大胆不敵で、あまりにも理想主義的な、狂気の沙汰ともいえる計画。
――人間と魔族が公の場で婚約し、双方の世界に、武力による衝突だけが唯一の解決策ではないと知らしめること。
これこそが、魔界では「軟弱」と蔑まれ、人間界ではその優しさゆえに苦悩したアルクが、魔族の王子として初めて示す共存への道筋であった。彼は、力による支配ではなく、対話と理解によってこそ、真の平和が訪れると信じたのだ。
そしてそれは、セレスティーヌが、腐敗しきった人間社会の搾取構造を根底から覆すための、革命の狼煙でもあった。彼女は知っていた。支配者たちが民を虐げるために使う最も安易な道具が、「共通の敵」という名の恐怖と憎悪であることを。ならば、その敵と手を取り合い、種族を超えた相互理解こそが真のあるべき姿だと世界に示すことこそ、最も痛烈な革命の始まりとなる。
二人は、それぞれの場所で動いた。
アルクは魔王である父に、そして戦を望むデモン・ロード・ヴァルガスに、最後の対話を試みた。人間界で見てきた真実、腐敗した者たちの悪意と、その中で懸命に生きる者たちの光を語り、この戦が無益であることを説いた。
当然、一笑に付され、裏切り者の烙印を押される。だが、彼の言葉は、好戦派のやり方に疑問を抱く一部の者たちの心に、小さな波紋を広げていた。
セレスは、彼女が持つ全ての情報網と影響力を駆使した。第一王子が仕掛ける戦争が、国内の腐敗から民の目を逸らすための欺瞞であることを、瓦版や噂話を通じて王都中に流布させた。聖光教会の事件で失墜した王家の権威は、この情報操作によってさらに揺らぎ、民衆の間に「何が本当の敵なのか」という疑念を生み出していた。
そして、運命の日。
場所は、人間界と魔界の狭間にある、忘れられた古代の神殿。双方の世界に、魔法によってその光景が映し出される中、二人は対峙した。
深紅の絹が幾重にも重なり、まるで薔薇の花弁のように優雅に波打つ裾広がりのドレスを纏うセレスティーヌ 。その隣には、夜明け前の静謐な湖面のごとき蒼き髪を持つ魔界の王子、アルクヴィスが静かに佇んでいた 。
漆黒の大理石に、アルクはゆっくりと膝を折る。その手には、夜空の星を封じたかのような指輪が掲げられていた。彼の瞳には、これから自分たちが引き起こすであろう世界の混乱と、それでも揺らぐことのない、セレスへの愛が宿っていた。
「セレスティーヌ・ド・モンテクリスト侯爵令嬢 。
人の身であるそなたを、この穢れた魔の血で染めるのは恐ろしい 。
それでも、アルクヴィス・ゼファーと共に歩むことを赦してほしい 。
苦しみも、喜びも、永劫の時間も 。
――この命尽きるまで、いや、滅びすら超えて、そなたを護ろう 」
その言葉は、双方の世界に響き渡った。人間たちは絶句し、魔族たちは激昂した。だが、セレスは動じない。彼女は差し出されたアルクの左手に、自らの手を静かに重ね、高らかに宣言する。
「アルクヴィス・ゼファー 。
魔の王子でありながら、己が血と宿命すらも顧みず、ただ一人の女のために跪くあなたに、私は敬意を捧げます 。
我が名は、セレスティーヌ・ド・モンテクリスト――この身をあなたに託しましょう 。
穢れを恐れはいたしません 。
なぜなら、あなたの心がいかなる宝石よりも尊いと、私は知っているからです 。
――共に歩みましょう、永劫の刻の果てまでも 」
王子と悪役令嬢。魔族と人間。
世界が憎悪と戦火に包まれようとする、まさにその瞬間に交わされた婚約の誓い。それは、世界に対する二人の宣戦布告であり、愛と理想を掲げた、あまりにも無謀な賭けの始まりであった。
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