第37話:王子の帰還、人間の宣戦

 セレスが自らの出生の秘密と向き合おうと決意していた、まさにその頃―――


「木漏れ日酒場」のアルクの元へ、普段から冷静なゼファルが珍しく血相を変えて飛び込んできた。

 その手には、魔界との通信にのみ用いる黒水晶が握られており、不吉な紫電を放っている。


「アルク殿下、父君…魔王ヴァラドール様より、緊急のご命令です!」


 ゼファルの切迫した声に、同室にいたヴォルフガングやリリスも息を呑む。ゼファルは一息に告げた。

「――直ちに魔界へ帰還されたし、と。人間界との大規模な戦争が始まります」


「…戦争だと!?」


 アルクは思わず立ち上がった。

 その言葉は、寝耳に水だった。全面戦争となれば、魔族と人間、双方に計り知れない犠牲と混乱をもたらすことになる。

「なぜだ! 我々は事を荒立ててはいないはずだ!」

 アルクの驚きと葛藤に満ちた問いに、ゼファルもまた、険しい表情で頷いた。


「我々から仕掛けたものではございません。宣戦布告は、人間側からなされました」


「人間側から…?一体誰が!」

 ゼファルは、通信で得た情報と、これまでの諜報活動で掴んでいた事実を繋ぎ合わせ、冷静に告げた。


「ユグドラル王国の第一王子、レオンハルト・ヴァン・ユグドラル。長らく諸国を外遊していた彼が、帰国したようです」


「この国の第一王子が?」


「はい。帰国した彼は、相次ぐ王族の失脚や貴族の腐敗で揺らぐ王家と国内の情勢を立て直すため、大義名分を掲げたようです。

『魔族という共通の脅威を討伐し、王国を再統一する』と。堕落した貴族たちの目を外に向けさせ、自らの求心力を高めるための、あまりにも古典的なプロパガンダです」


 その言葉は、セレスがこれまで戦ってきた王国の腐敗の根深さを、改めてアルクに突きつけた。

 今度は、その頂点に立つ者が、国をまとめるという名目のために、世界を戦乱に巻き込もうとしている。


「我ら魔界は、その一方的な宣戦布告に応じた、という形です。当然、好戦派の者たちはこの機会を逃さず、魔王陛下に開戦を強く進言したことでしょう」


「…内政の失敗を覆い隠すために、他国に戦を仕掛ける…。なんという愚かさだ…」

 アルクは拳を強く握りしめた。


 だが、そんな感傷に浸る時間はなかった。帰還命令は絶対だ。逆らえば、それは魔界への反逆を意味する。


 そして何より、彼の心を絶望的なまでに乱すのはセレスの存在だった。


 彼女の属する人間の王国がこの戦争の引き金を引いた。自分は、彼女の国と戦うために呼び戻されている。もし魔界へ帰還すれば、二人は紛れもない敵同士となる。


(セレスに、何と伝えればいい…? 君の国が起した戦争に、僕は敵として参加しなければならない、と…? そんな残酷なことが言えるか? だからといって、命令を無視してここに残れば、僕は魔界の裏切り者となり、セレスは『魔族を匿った反逆者』として断罪されるだろう。どちらを選んでも、彼女を更なる苦境に追い込むだけだ…)


 選択肢は、どれも破滅へと続く茨の道だった。アルクの心は、魔界の王子としての立場と、セレスへの愛情との間で、激しく揺れていた。


「殿下…」

 ゼファルが、静かに声をかける。


 彼もまた、この命令がアルクにとってどれほど過酷なものであるかを理解していた。そして、人間の王子が仕掛けたこの戦争が、自分たち魔族の運命をも大きく揺るがすであろうことを。

「お言葉ですが…先だってもお伝えしておりました通り、遅かれ早かれ決断が必要になりました…私の立場としましては、一刻も早く国に戻られますようにとしか言いようはありません。しかしながら…」


「分かっている…皆迄言うな。」


 アルクは、窓の外に広がる王都の街並みを見つめた。あの先に、セレスがいる。


 彼女は今、ようやく妹を救い出し、王国の腐敗の一端を切り崩し、僅かばかりの安寧を手に入れたばかりだ。そんな彼女に、この様な残酷な知らせを、どう伝えれば良いのか。そもそも、自分はどうしたいのか…どうすべきなのか…


 正解などはないのだろう…だが、決断を迫られていることが変わることは無く、そしてそれが今なのだ。

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