第36話:揺れる天秤、令嬢の決意
母、イザベラの部屋を後にしてから、どれほどの時間が経っただろうか。セレスは自室の窓辺に立ち、月明かりに照らされる庭園を、ただぼんやりと眺めていた。眠りにつくことなど、到底できそうにない。
「……私が、魔族の血を…」
何度その言葉を反芻しても、現実味を帯びてはこなかった。自分がこれまで戦ってきた王国の腐敗、貴族たちの悪意、それら全てが、自分の出生という、より根源的な問題の前では些細なことにさえ思えてくる。
ルミネの聖女としての力。自身の常人離れした慧眼と精神力。それらが禁忌とされる血に由来すると知った今、これまで誇りとしてきたもの全てが、まるで呪いのように感じられた。
そして、脳裏に浮かぶのはアルクの姿。
初めて出会った森での神秘的な佇まい。共に戦う中で見せてくれた優しさと、自分に向けられる真っ直ぐな愛情。ようやく見つけた、心から信頼し、共に歩みたいと願った唯一の存在。
「魔族と人間は、あまりにも違いすぎる…」
母の言葉が、重く胸にのしかかる。
その言葉の裏には、同じ混血として生きてきた母自身の、計り知れない苦悩と悲しみが込められていた。
父、アルフォンスは、母のすべてを受け入れ、愛し抜いてくれたという。だが、その愛を守るために、母は自らの存在を隠し、静かに生きることを選んだ。
(お母様は、私に同じ道を歩んでほしくないのね…)
アルクとの未来を夢見れば見るほど、それは父と母が辿った苦難の道をなぞることになるのかもしれない。
いや、相手が魔界の王子である以上、その困難は比較にすらならないだろう。モンテクリスト侯爵家だけでなく、王国、そして魔界をも巻き込む大乱に発展しかねない。
自分の愛が、彼を、家族を、そして自分が守ろうとしてきた民を、破滅に導くかもしれない。
セレスの心は、激しく揺れ動いていた。アルクへの愛情と、侯爵令嬢としての責務。個人の幸福と、世界の平穏。二つの間で、彼女の心は引き裂かれそうだった。
ふと、書棚に立てかけられた一冊の古い書物が目に留まる。『モンテクリスト侯爵家年代記』。
そこには、王国の歴史と共に歩んできた、誇り高き一族の記録が記されている。
だが、母から聞かされた真実は、この輝かしい歴史の裏に隠された、もう一つの物語の存在を示唆していた。
(お父様は…お母様のすべてを知った上で、受け入れられた…)
温厚で、時には気弱にさえ見える父、アルフォンス。王都の権力闘争には向かないと、心のどこかで歯がゆく思っていた父が、どれほど強靭な愛と覚悟を持っていたのかを、セレスは今更ながらに思い知る。
(聞かなければならない…お父様に。何があったのか。そして、どうやってその苦難を乗り越えてこられたのかを)
母は、自分を案ずるが故に、アルクとの関係を禁じた。だが、父ならば、違う視点から何かを語ってくれるかもしれない。禁忌を乗り越えた父の言葉にこそ、自分が進むべき道を見出すための光があるのではないか。
セレスの瞳に、再び強い意志の光が宿った。
夜が明けたら、父の元へ向かおう。そして、モンテクリスト家に隠された真実のすべてを、自分の進むべき未来を、見定めるために。
今はただ悩むしかない。だが、決して立ち止まりはしない。それが、これまで幾多の困難に立ち向かってきた「悪役令嬢」、セレスティーヌ・ド・モンテクリストの生き方だった。夜明け前の深い闇の中、彼女は静かに、しかし確かな決意を固めていた。
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