第30話:嵐の後の静寂、二つの魂が寄り添う時
聖光教会とクリストファー王子の陰謀が白日の下に晒され、王都を揺るがした激震から数日が過ぎた。モンテクリスト侯爵邸には、まるで長い嵐が過ぎ去った後のような、穏やかで静かな時間が流れていた。
侯爵邸の一室では、ルミネッタが安らかな寝息を立てている。ガロンによる献身的なマナの調整と、何よりも敬愛する姉が常に傍にいるという安心感が、彼女の心身を急速に回復させていた。その穏やかな寝顔を、セレスは愛おしそうに見守っていた。張り詰めていた緊張の糸がようやく解け、彼女の表情にも柔らかな光が戻っている。
「……眠っている姿は、本当に天使のようだ」
静かな声に振り返ると、そこにアルクが立っていた。彼もまた、戦いの緊張から解放され、穏やかな表情を浮かべている。
「ええ。この寝顔を守るためなら、私はどんな悪にでもなれる……そう思っていました」
セレスは、自嘲気味に微笑みながら立ち上がり、アルクと共に部屋を静かに出た。
二人は、手入れの行き届いた庭園へと歩みを進めた。色とりどりの花々が咲き誇り、柔らかな陽光が二人を包む。
「アルク殿下。改めて、お礼を申し上げます」
セレスは立ち止まり、アルクに深く頭を下げた。「貴方と、貴方の仲間たちがいなければ、私はルミネを救えなかった。それどころか、私自身が王宮の底知れぬ闇に呑まれていました。本当に……ありがとう」
その声には、いつものような「悪役令嬢」の気高さはなく、一人の女性としての、心からの感謝が滲んでいた。
「私はずっと、独りで戦ってきました。もちろん、助けてくれる人は沢山いましたが…決断と実行は私自身が行ってきました。それが侯爵家の長女としての責務だと信じて。ですが、今回ばかりは、己の無力さを痛感させられましたわ」
ルミネが連れ去られた時の絶望が、セレスの脳裏をよぎる。彼女は、これまでの戦いが常に孤独であったことを静かに吐露した。
「ですが、貴方と出会い、初めて他者を心から信頼し、頼ることの意味を知りました。……特に、この私を『悪役令嬢』としてではなく、ただの一人の人間として信じてくださったこと、感謝しています」
その真っ直ぐな瞳に見つめられ、アルクの心は温かいもので満たされた。彼は、魔界では感じたことのない、安らぎと充足感を覚えていた。
「僕の方こそ、礼を言わなければならない」
アルクは、自身の胸の内を明かし始めた。「僕は魔界では『軟弱』とされ、父の期待にも応えられず、自分の居場所を見失っていました。人間界で『悪』を成すという使命も、どうすれば良いのか分からなかった」
彼の声には、これまで誰にも見せなかったであろう、王子としての苦悩が滲んでいた。
「ですが、セレス殿、貴女に出会った。その強い信念、どんな逆境にも屈しない知略と勇気……僕が持ち合わせていないもの全てを持つ貴女の姿は、まるで光そのものでした。僕には、貴女のような決断力も、諦めない強さもありません。ですが、貴女の側にいると、自分もそうあれるような気がするのです」
アルクの告白に、セレスは息を呑んだ。彼もまた、自分と同じように、己に足りないものを相手に見ていたのだ。
「私には、貴方のような純粋な心と、種族さえも超えて他者を癒す優しさはありませんわ」
セレスは、アルクの手をそっと握った。「策略と駆け引きの中で心をすり減らしてきた私にとって、貴方の存在そのものが、どれほどの救いになっていたことか……」
互いの弱さと、それを補い合う相手の強さ。二人は、その手に伝わる温もりを通じて、自分たちの間に芽生えた感情が、単なる信頼や尊敬ではなく、深い愛情であることをはっきりと意識した。
アルクは、その手を優しく握り返し、決意に満ちた瞳でセレスを見つめた。
「魔界での僕の使命が何であれ、これからの僕の力は、貴女とルミネ嬢、そして貴女が守ろうとするこの世界の未来のために使いたい」
その誓いに、セレスはこれ以上ないほどの幸福を感じながら、力強く頷いた。
「ええ。そして私の知恵と力は、貴方が魔界でご自身の道を見つけるために。……共に歩みましょう、アルクヴィス」
名前を呼ばれ、アルクの頬が微かに赤らむ。その初々しい反応に、セレスも思わず笑みをこぼした。
その時、庭園の向こうから、明るい声が響いた。
「お姉様! アルク様!」
見れば、すっかり元気になったルミネッタが、ガロンに付き添われながら、こちらに手を振っている。姉とアルクの間に流れる、穏やかで温かい雰囲気を敏感に感じ取ったのか、その顔には無邪気な笑顔が咲いていた。
その光景は、人間と魔族が手を取り合う、輝かしい未来を象徴しているかのようだった。王国の闇はまだ深い。魔界の脅威も去ってはいない。だが、二人でなら、どんな困難も乗り越えていけるだろう。
アルクとセレスは、互いに視線を交わし、静かに、しかし強く微笑み合った。彼らの本当の戦いは、まだ始まったばかりだった。
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