削除された青春
滋賀列島
削除された青春
居酒屋の個室に集まった二十五歳の同級生たち。十年ぶりの再会を祝して乾杯の音が響く中、幹事の佐藤が懐かしそうに口を開いた。
「そういえばさ、修学旅行で田中が階段から落ちた話、覚えてる?あれ、めちゃくちゃ面白かったよな」
周りの同級生たちが笑いながら反応する。
「ああ、あったあった!夜中にトイレ行こうとして、暗闇でコケたやつでしょ?」
「骨折して一人だけ先に帰ったんだっけ」
「可哀想だったけど、その時の田中の『あ゛ー』っていう変な声が忘れられない」
しかし、当の田中だけが困惑した表情を浮かべていた。
「え?そんなことあったっけ?全然覚えてないんだけど...」
健太は田中の反応に微妙な違和感を覚えた。三年前から普及し始めた記憶削除サービス「Memory Clean」の影響だろう。恥ずかしい記憶を消去できるこのサービスは、若者の間で爆発的に人気となっていた。
田中も自分の恥ずかしい失敗談を消してしまったのだ。他の人にとっては面白い思い出でも、本人にとっては消したいほど辛い記憶だったのかもしれない。
健太自身も、Memory Cleanを何度か利用していた。高校時代の告白の失敗、大学受験での不合格体験、バイト先での大失態。今では、それらの記憶は綺麗サッパリ消えている。
「まあ、消しちゃったなら仕方ないよね」佐藤が苦笑いした。「最近こういうことよくあるもんな」
会話が一瞬途切れた時、健太の隣に座っていた女性が小さく口を開いた。
「田中くんが転んだのは、確か午前二時頃だったと思う。その日は雨が降ってて、廊下が少し濡れてたのよ。だから余計に滑りやすかったの」
健太は横を見る。高校時代はあまり目立たない存在だった鈴木美咲だ。
「そうそう!」健太の記憶も蘇ってきた。「俺たちも田中の声で目が覚めて、先生と一緒に救急車呼んだんだった。でも田中、痛いのに『みんなに迷惑かけてごめん』って謝ってばかりで」
「優しかったよね、田中くん」美咲が微笑んだ。「骨折してるのに、みんなの旅行を台無しにしたくないって、無理して笑顔作ろうとしてた」
健太は美咲の詳細な記憶に驚いた。
「美咲、よく覚えてるね。 Memory Clean 使うようになってから、あんまり細かいところまで覚えてないよ」
「実は私、Memory Clean 使ったことないの」
美咲の言葉に、健太は目を丸くした。
「え、一度も?なんで?」
美咲は少し困ったような表情を見せた。
「うーん、なんとなくなんだけど...辛い記憶も含めて自分だと思うから」
この会話が周りに聞こえたのか、近くに座っていた同級生たちが振り返る。
「え、美咲ちゃん Memory Clean 使ってないの?」
「マジで?一度も?」
「すげー、珍しいじゃん」
だんだんと会話の輪が広がっていく。
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「でも不思議だよね」同級生の一人、山本が言った。「同じ出来事でも、人によって全然印象が違うんだもん」
美咲がうなずく。
「そうなの。例えば体育祭の時のリレー。健太くんがバトンを落としちゃった話、覚えてる?」
健太の顔が曇る。実はその記憶は削除済みだったが、美咲の言葉で徐々に思い出してきた。
「ああ...あったね」健太は苦笑いした。「最終走者で、しかもアンカーだったのに。クラス優勝がかかってたのに、俺のせいで...」
「でもね」美咲が続けた。「バトンを落とした後の健太くんの行動がすごく印象的だったの。普通なら諦めるところを、必死に拾って最後まで走り抜いた。結果は最下位だったけど、みんな健太くんに拍手してた」
周りの同級生たちも記憶を呼び覚まされる。
「そうだった!健太、めちゃくちゃかっこよかったよ」
「あの時の『ごめん!』って叫びながら走る姿、感動したもん」
「クラスのみんな、結果より健太の姿勢を褒めてたよね」
健太は驚いた。自分にとってはただただ恥ずかしい失敗談だったのに、周りの人にとっては感動的な思い出だったのだ。
「俺、その記憶削除してたんだ。恥ずかしくて仕方なくて」
美咲が優しく微笑む。
「でも私たちにとっては、健太くんの人柄がよく表れた素敵な思い出よ」
田中も記憶が戻ってきたようで、
「俺の階段から落ちた話も、そうなのかな。俺にとっては情けない思い出だったけど、みんなにとっては...」
「面白かったっていうより」佐藤が訂正した。「田中の人の良さがよく分かるエピソードだったよ。痛いのに周りを気遣う優しさとか」
会話が盛り上がる中、一人だけ黙っている女性がいた。隅に座っている田村咲だ。
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時間が進むにつれ、美咲の記憶を頼りに様々な高校時代のエピソードが蘇ってくる。文化祭、体育祭、修学旅行、日常の授業風景。
みんな Memory Clean で削除した記憶を、美咲の詳細な描写によって思い出していく。そして不思議なことに、自分にとって恥ずかしかった記憶が、他の人にとっては温かい思い出だったことを知る場面が続いた。
「そういえば」美咲が健太を見て言った。「文化祭の時、健太くんがギターで弾き語りしたよね」
「ああ、それも削除済みだ」健太は頭を掻いた。「途中で弦が切れて、めちゃくちゃ恥ずかしかった」
「でも機転を利かせて、すぐに『乾杯』に切り替えたじゃない。しかも歌詞忘れて鼻歌になっちゃったけど、逆にそれが会場を和ませて」
周りが笑い出す。
「あー、思い出した!健太の真剣な顔で鼻歌歌ってる姿、超面白かった」
「でも下手くそなりに一生懸命で、好感度爆上がりだったよ」
「あの後、健太に声かける女子増えたもんね」
健太は驚く。自分の中では完全に黒歴史だった出来事が、みんなにとっては魅力的に映っていたとは。
そんな和やかな雰囲気の中、田村咲が突然立ち上がった。
「ちょっと、やめてよ」
咲の声は震えていた。
「そういう話、聞きたくない」
一同の視線が咲に集まる。
「咲ちゃん、どうしたの?」美咲が心配そうに聞く。
「私...私は違うの。みんなみたいに、恥ずかしい思い出が美談になるような経験してない」
咲は涙声になった。
「私が Memory Clean で消した記憶は、本当に最低で、最悪で、誰かを傷つけた記憶なの。そんなの思い出したくない」
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個室が静まり返る中、美咲が優しく声をかけた。
「咲ちゃん、無理に話さなくてもいいよ。でも...」
「でも何?」咲が振り返る。
「一人で抱え込まないで。もしかしたら、咲ちゃんが思ってるほど酷い話じゃないかもしれない」
咲は席に座り直し、しばらく黙っていたが、やがて重い口を開いた。
「私...実は完全に消しきれてない記憶があるの。Memory Clean を何度使っても、断片的に残ってしまう記憶が」
咲の声が震える。
「高校一年生の時だったと思う。クラスに転校生の男の子が来て...」
咲は額に手を当てながら続けた。
「記憶が曖昧なんだけど、すごく大人しくて、人付き合いが苦手そうな子だった気がする」
咲の声が小さくなる。
「その子のことを、私は...いじめてた」
一同が息を呑む。
「最初は軽い気持ちだった。仲良しグループの子たちが『あの子変だよね』って言うから、私も同調しちゃって。無視したり、わざと聞こえるように悪口言ったり」
咲の手が震えている。
「でも段々エスカレートして、靴を隠したり、机に落書きしたり。その子は何も言い返さないから、調子に乗って続けてた」
健太は咲の話を黙って聞いていた。確かにそんな出来事があったことを覚えている。
「ある日、その子が学校を休んだ。次の日も、その次の日も。一週間経って、担任の先生から『転校することになった』って聞かされた時、私は...ホッとしちゃったの」
咲の涙が頬を伝う。
「最低でしょ?人を傷つけておいて、いなくなったらホッとするなんて。その時の私の気持ちを思い出すたびに、自己嫌悪で死にそうになる。だから消したの。でも完全に消えないの。時々、夢に出てくる」
重い沈黙が個室を支配した。誰も咲の行為を軽々しく否定することはできなかった。いじめは確かに深刻な問題で、被害者を傷つける行為だ。
しばらくして、健太がゆっくりと口を開いた。
「咲の気持ち、よくわかる。俺も似たような経験があるから」
一同が健太を見る。
「俺も高校時代、クラスでいじめが起きた時に止められなかった。見て見ぬふりをしてしまった。それが今でも心に重くのしかかってる」
健太は続けた。
「でも咲、俺はその時のことを覚えてる。田所くんのことも」
咲が顔を上げる。
「田所くんだよね。確か、静岡から来た」
「覚えてるの?」
「覚えてるよ。そして...正直に言うと、咲のやったことは確かに酷かった。田所くんは本当に辛い思いをしていたと思う」
健太の言葉に、咲の表情が更に暗くなる。しかし健太は続けた。
「でも、咲が思い出したくないのは、ただ酷いことをしたからじゃないと思う。途中で自分の行為に気づいて、後悔し始めたからじゃないか?」
「何それ、慰めてくれてるの?」咲が自嘲気味に言う。
「慰めじゃない。事実を言ってるんだ」
健太は記憶を辿りながら慎重に言葉を選んだ。
「確かに最初の頃は、咲もグループに流されてた。田所くんを無視したり、嫌がらせに加担したりしてた。それは事実だし、間違った行為だった」
咲が息を呑む。
「でも二ヶ月くらい経った頃から、咲は変わり始めてた。グループの子たちがエスカレートしていく中で、咲だけは徐々に距離を置くようになった」
「そんな...」
「ある日、俺が田所くんに話しかけた時に聞いたんだ。『最近、田村さんだけは僕に挨拶してくれる』って。『グループが僕の悪口を言ってる時、田村さんだけは嫌そうな顔をしてる』って」
咲の涙が止まる。
「田所くんがそんなことを...?」
「ああ。でも俺は、それを聞いても何もできなかった。咲が変わろうとしてることに気づいていたのに、田所くんを助けることも、咲を支えることもできなかった」
健太の声に後悔が滲む。
「咲は確かに最初、間違った行動をした。それは事実だし、田所くんが傷ついたのも事実だ。でも、咲は途中で気づいて、変わろうとしていた。それも事実なんだ」
別の同級生が口を開いた。
「俺も覚えてる。咲が変わっていくのを見てた。でも俺たちも、見て見ぬふりをしてたんだ。咲だけを責められない」
また別の同級生が続ける。
「田所くんの転校理由も、いじめだけが原因じゃなかった。お父さんの転勤で急に決まったって、後で担任が説明してたよ」
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美咲が静かに言った。
「咲ちゃん、でもその記憶を消してしまったら、また同じことを繰り返してしまうかもしれないよ」
「どういうこと?」
「辛い記憶にも意味があるの。咲ちゃんが一度いじめに加担してしまった経験があるからこそ、今度同じような場面に遭遇した時に『これは間違ってる』って直感で気づけるはず。でも、その記憶を消してしまったら、また同じ過ちを犯してしまうかもしれない」
佐藤も頷く。
「俺も似たような経験あるよ。大学受験で第一志望に落ちた記憶を削除したんだ。でも美咲の話を聞いてて思い出した。あの時の失敗の原因は準備不足だった。で、就活の時も同じような準備不足で失敗したんだ。学ぶべき教訓を削除してしまったせいで、同じ過ちを繰り返してしまった」
山本が続ける。
「俺の場合は...元カノとの別れの理由を削除したんだけど、今思えば、俺の束縛が激しすぎたのが原因だった気がする。でも記憶を消したせいで、今の彼女にも同じような束縛をしてしまって、最近よく喧嘩になる。なんか同じパターンを繰り返してる気がするんだ」
咲がゆっくりと顔を上げる。
「でも、思い出すのが怖い」
「一人で思い出す必要はないよ」美咲が微笑んだ。「みんなで一緒に思い出せば、違う角度から見えることもある」
健太が提案する。
「俺たちの記憶と照らし合わせながら、少しずつ思い出してみない?きっと咲が思ってるほど一方的じゃなかったことがわかるよ」
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それから一時間以上をかけて、みんなで高校時代の記憶を掘り起こしていった。咲だけでなく、それぞれが削除した記憶を他の人の記憶と照らし合わせながら思い出していく。
面白いことに、自分にとって恥ずかしい記憶が他人にとって好印象だった話が次々と出てきた。
健太の告白失敗談も、実は相手の女の子にとっては「すごく真剣で嬉しかった」思い出だったし、山本の体育での失敗も「一生懸命で応援したくなった」エピソードとして記憶されていた。
そして咲の記憶についても、周りの人たちが覚えているのは、いじめに加担していた初期の咲ではなく、後半で態度を改めて優しくなった咲の姿だった。
「咲は確かに最初は間違ってた」同級生の一人が言った。「でも気づいて変わろうとした。それって、すごく勇気のいることだよ」
「田所くんが転校する時、咲だけ謝罪の手紙を渡してたよね」別の同級生が思い出す。「あの時の咲、すごく真剣だった」
咲が驚く。
「みんな、見てたの?」
「当たり前だよ。クラスメイトだもん。咲の変化、みんな気づいてた」
美咲が優しく言った。
「人間は間違いを犯す生き物よ。でも間違いに気づいて変われる生き物でもある。その『変わろうとした記憶』を消しちゃったら、咲ちゃんの成長そのものを否定することになる」
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深夜を過ぎても、同窓会は続いていた。Memory Clean で削除した記憶を、みんなで少しずつ思い出していく作業は、まるで失くしたパズルのピースを見つけていくようだった。
佐藤が感慨深げに言った。
「Memory Clean って、確かに辛い記憶は消してくれるけど、その記憶から学べたはずのことも一緒に消しちゃうんだな」
健太が頷く。
「俺も告白の失敗を削除したけど、そのせいでその後の恋愛でも同じような失敗を繰り返してた。『なぜ失敗したのか』を覚えてないから、改善のしようがない」
山本が付け加える。
「それに、自分にとって恥ずかしい記憶でも、他の人にとっては好印象だったりする。削除することで、自分の魅力的な一面まで忘れちゃってたのかも」
咲がポツリと言った。
「私、田所くんに謝罪の手紙を書いたこと、すっかり忘れてた。あの時、すごく勇気が必要だったのに」
「それは咲の美しい部分よ」美咲が微笑む。「間違いを認めて謝罪する勇気。それこそ、咲が成長した証拠」
健太は美咲を見つめた。
「美咲は、なんで Memory Clean を使わなかったの?辛い記憶もあっただろうに」
美咲は少し考えてから答えた。
「実は私も、削除したい記憶はたくさんあった。でも、その記憶があったから今の私がいるって思うの」
「例えば?」
「高校時代、私は本当に地味で目立たない子だった。友達も少なくて、一人でいることが多かった」
美咲の声が優しくなる。
「でも一人の時間が多かったから、本をたくさん読んだし、人の観察もよくするようになった。人の気持ちを考える癖もついた」
「それが今に活かされてるの?」
「そう。今の仕事の図書館司書として、一人一人の利用者に寄り添えるのは、自分が孤独だった経験があるから。辛い記憶を消してしまったら、今の私の優しさも消えてしまうかもしれない」
一同が静かに聞き入る。
「記憶って、良いも悪いも含めて自分を作ってる材料なの。一部だけ取り除いちゃったら、建物全体のバランスが崩れちゃうんじゃないかって思う」
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同窓会は明け方近くまで続いた。Memory Clean で削除した記憶を思い出すだけでなく、その記憶に対する新しい解釈や価値を見つけていく時間でもあった。
咲が決意を込めて宣言した。
「私、Memory Clean をやめる。削除した記憶も、できる限り思い出してみる。怖いけど、みんながいてくれるなら大丈夫」
佐藤も続く。
「俺も受験失敗の記憶、ちゃんと思い出してみる。同じ失敗を繰り返さないためにも」
山本も頷く。
「元カノとの別れの理由も思い出さないと。今の彼女との関係を良くするためにも必要かもしれない」
健太は美咲を見つめた
。
「美咲、ありがとう。君がいなかったら、俺たちは大切な記憶を失ったままだった」
「私こそ、みんなと記憶を共有できて嬉しかった。記憶って、一人で抱えてるより、みんなで分かち合った方が、重荷じゃなくて宝物になるのね」
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帰り道、健太は夜空を見上げた。雲の隙間から星が顔を覗かせている。記憶も同じかもしれない。辛い記憶は雲に隠れることもあるけれど、消えてしまうわけじゃない。時が経てば、違う光で照らされて、別の意味を持つようになる。
街角の電光掲示板に Memory Clean の広告が流れる。
「過去を消して、新しい自分に」
健太は苦笑いしながら呟いた。
「過去を受け入れて、本当の自分に──の方が、よっぽどいいキャッチコピーだと思うけどな」
携帯電話が鳴る。美咲からのメッセージだった。
「今日はありがとう。みんなで昔話をするのって、こんなに深い意味があったのね。今度は『記憶の復元会』でもしましょうか」
健太は返事を打った。
「それ、いいね。過去と向き合う同窓会、定期開催で」
そして付け加えた。
「記憶って、一人で抱えてるより、みんなで分かち合った方が、重荷じゃなくて宝物になるんだな」
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それから一ヶ月後、健太は再び Memory Clean のクリニックを訪れていたが、今度は記憶を削除するためではなった。削除した記憶の復元サービスを受けるためだ。
最近になって提供され始めたこのサービスは、完全ではないものの、ある程度の記憶を蘇らせることができる。
カウンセラーが説明する。
「復元される記憶は断片的で、すべてが戻るわけではありません。それでもよろしいですか?」
「はい」健太は迷わず答えた。「断片でも構いません。大切なのは、その記憶から学び直すことですから」
施術後、健太の記憶には少しずつ削除していた過去が蘇った。告白の失敗、受験での挫折、バイトでのミス。でも同時に、それらの出来事で支えてくれた人たちの顔も思い出された。
失敗した告白の後で励ましてくれた友人、受験失敗の時に一緒に泣いてくれた母親、バイトのミスをフォローしてくれた先輩。
記憶とは、決して一人だけのものではないのだ。自分を中心とした無数の人間関係の網の目の中に存在している。
健太は思った。Memory Clean の最大の問題は、記憶を個人の所有物として扱っていることかもしれない。でも実際には、記憶は周りの人たちとの共有財産なのだ。
一人が記憶を削除しても、その記憶を覚えている人がいる限り、記憶は完全に消えることはない。そして、みんなで記憶を共有し直すことで、新しい価値や意味を見つけることができる。
夜明けが近づいていた。新しい一日の始まりとともに、健太は自分の全ての記憶──良いものも悪いものも、削除したものも復元したものも──を胸に抱いて歩いていく。
過去を消すのではなく、過去と共に歩んでいく。そして、その記憶を誰かと分かち合うことで、一人では見えなかった意味や価値を発見していく。
それが、本当の意味で「今を生きる」ということなのだから。
健太のスマートフォンには、同窓会以降、同窓生たちからのメッセージが次々と届いた。咲は田所くんと連絡を取ることができ、改めて謝罪することができたという。
佐藤は受験失敗の記憶を思い出し、今度は準備を怠らずに資格試験に挑戦するという。山本は元カノとの別れの理由を思い出し、今の彼女との関係が劇的に改善されたという。
そして美咲からは、こんなメッセージが届いた。
「記憶って、一人で持ってるには重すぎるものかもしれませんね。でも、みんなで支え合えば、その重さも軽くなるし、そこから新しい価値も生まれる。今度の集まりが楽しみです」
健太は微笑みながら返事を書いた。
「記憶は、過去を保存するだけじゃなくて、未来への道標でもあるんだね。良い記憶も辛い記憶も、全部が今の俺たちを作って、これからの俺たちを導いてくれる。みんなでいれば、どんな記憶とも向き合っていけそうだ」
空が白み始める。Memory Clean の広告塔の明かりが、朝日に溶けて消えていく。
健太は思った。人生とは、記憶の積み重ねなのかもしれない。そして、その記憶を誰かと分かち合うことで、人は孤独から解放され、本当の意味で生きることができるのだろう。
完璧な過去を持つ人間なんていない。でも完璧じゃないからこそ、人は成長し続けることができる。記憶とは、不完全な自分を受け入れて、それでも前に進んでいくための、人生最大の贈り物なのだ。
削除された青春 滋賀列島 @cigaret
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