第4章:崩壊の序曲
第十一話:届かない声、閉ざされた瞳
文化祭まで、あと二日。
私たちの演劇部は、最後の追い込みに入っていた。体育館では、舞台装置の最終調整が夜遅くまで行われ、衣装や小道具のチェックも抜かりなく進められた。
舞台は、まさに完璧な状態だった。照明は繊細に光を操り、音響は感情の起伏を増幅させる。大道具はスムーズに転換され、小道具は一つ一つが意味を持つ。すべてが、ショウタの緻密な計算と、血の滲むような努力の結晶だった。
しかし、その完璧な舞台とは裏腹に、私とショウタの関係は、もはや見る影もなかった。
彼は、私から完全に心を閉ざしていた。
彼の視線が私を捉えることはなく、言葉を交わすのは、舞台の指示に関することだけ。それも、必要最低限の、機械的な会話だった。
「メイ、次のシーン、舞台右袖から登場」
「了解」
私たちの間に流れる空気は、氷のように冷たく、重苦しかった。部員たちも、その異様な雰囲気に気づいていたけれど、誰も口を挟むことはなかった。まるで、私たち二人の間に存在する深い溝が、彼らをも巻き込む闇であるかのように。
******
その日も、私は自室で台本を読んでいた。しかし、頭に入ってこない。文字の羅列が、ただの記号にしか見えなかった。
私の心は、ショウタのことでいっぱいだった。
あの倉庫で見た彼の言葉。『僕にとって、君は舞台上の仮面を被った怪物でしかない』
その言葉が、私の心を深く深く、抉り続けていた。
私は、彼に何をしてしまったのだろう。
私自身が、彼をこんなにも深く傷つけ、彼からすべてを奪ってしまった。
私が、彼を愛しているからこその行動だった、なんて。
そんな言い訳は、もう彼には届かない。届くはずがない。
私は、焦っていた。このままでは、彼が完全に私の前から消えてしまう。
文化祭が終われば、彼は、私から永遠に離れていってしまうのではないか。
あの時、彼が倉庫で書いていた言葉は、彼の「心からの決別」を意味していたのだ。
私は、彼との関係を修復したい。彼のあの輝く瞳を、もう一度見たい。
でも、どうすればいいのか、わからなかった。
私は、立ち上がって、部屋の窓を開けた。冷たい夜風が、私の頬を撫でる。
空には、満月が輝いていた。
まるで、私たちの未来を嘲笑うかのように、冷たく、そして美しく。
******
翌日、文化祭前日の最終リハーサル。
体育館は、本番さながらの熱気に包まれていた。
部員たちは、それぞれが最後の準備に追われている。
私は、衣装を身につけ、メイクを施す。鏡に映る私の顔は、主役の役柄そのものだった。
完璧な表情。完璧な佇まい。
しかし、その完璧な仮面の下で、私の心は激しく揺れ動いていた。
リハーサルが始まった。
私は、舞台上で、感情を爆発させる演技を繰り広げた。
台詞一つ一つに、魂を込める。
その瞬間、私は、自分が舞台上の役柄になりきっているのか、それとも、私自身の感情を吐き出しているのか、わからなくなった。
私の心に渦巻く後悔と悲しみが、演技と一体になって、観客のいない体育館に響き渡った。
リハーサルは、順調に進んだ。
ショウタは、舞台袖で、いつものように冷静に指示を出している。
彼の目は、常に舞台全体を捉えていた。
私の演技に合わせて、照明の色が変わり、音響のボリュームが調整される。
彼の指示は、的確で、寸分の狂いもなかった。
彼は、最後まで、完璧な舞台監督であろうとしていた。
リハーサルの休憩時間。
私は、意を決して、ショウタに声をかけようとした。
彼は、舞台装置の最終チェックをするために、舞台の奥へと歩いていく。
私は、彼の背中を追いかけた。
あと、数歩。彼に追いつけば、私は、謝罪の言葉を、彼に伝えることができる。
しかし、その時、ショウタが、突然立ち止まった。
彼は、ゆっくりと振り返る。
彼の視線が、私を捉える。
その目に宿っていたのは、私への憎しみでも、怒りでもなかった。
ただ、何もない、深い、深い虚無だった。
「何だ」
彼の声は、冷たく、感情がこもっていなかった。
まるで、私という存在が、彼にとって、何の意味も持たないかのように。
私の言葉は、喉の奥で詰まってしまった。
何を言えばいいのか、わからなかった。
「ごめん」
その一言が、どうしても口から出てこない。
彼の視線が、私から逸らされる。
彼は、再び舞台装置の方へと向き直った。
もう、私に興味はない、とでもいうように。
私は、その場に立ち尽くすしかなかった。
彼に、私の声は、もう届かないのだ。
彼の心は、私にとって、永遠に閉ざされてしまったのだ。
******
その夜、私は、桜ヶ丘高校の屋上へと足を運んだ。
ここは、かつて、私とショウタが、二人きりで星空を眺め、夢を語り合った場所だ。
あの頃は、未来が、希望に満ちて輝いていた。
私と彼の間に、暗い影など、存在しなかった。
私は、この場所で、彼に、私の秘めたる想いを伝えようと、何度心に決めたことだろう。
しかし、結局、私はその言葉を口にすることはなかった。
臆病だったから。
そして、今となっては、もう、その機会は永遠に失われてしまった。
屋上のフェンスにもたれかかり、私は、夜空を見上げた。
満点の星空。
あの頃と同じように、美しく輝いている。
しかし、私の心は、その輝きとは裏腹に、深い闇に閉ざされていた。
明日、この舞台は、最高の喝采を浴びるだろう。
私は、主役として、スポットライトを浴びるだろう。
しかし、その舞台の成功は、私にとって、何の意味も持たない。
なぜなら、私が最も大切にしていたもの──彼の心は、もう、私の手には届かないから。
私は、胸の奥からこみ上げてくる悲鳴を、必死に押し殺した。
この痛みは、私が彼に与えた痛み。
私が、彼を傷つけた罪の重さ。
私は、この痛みを、一生抱えて生きていくのだろう。
冷たい夜風が、私の頬を濡らす。
それが涙なのか、それとも、単なる風の冷たさなのか、もうわからなかった。
私の物語は、明日、クライマックスを迎える。
そして、その結末が、いかに悲劇的なものになるのか、私は、静かに受け止めるしかなかった。
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