第十話:冷えゆく心、憎しみへの萌芽

文化祭まで、あと数日。体育館の稽古は、熱気と緊張に包まれていた。

私は、主役として、完璧な演技を追求し続けた。台詞を暗唱し、感情の起伏を細かく調整する。身体の動き一つ、指先の震え一つまで、すべてが計算され尽くした舞台上の私。それが、私にとっての「メイ」だった。


私の心は、完全に舞台と役のことだけを考えていた。周囲のことは、全てが遠いノイズのように感じられた。ショウタの表情が、日に日に感情を失っていくことに、私は気づかないふりをしていた。あるいは、気づいていたけれど、それに触れることを恐れていたのかもしれない。


******


ある日のことだった。放課後、体育館での全体稽古が終わった後。

私は、部長と顧問の先生に呼び止められた。


「メイ、本当に素晴らしい演技だ。今年の演劇は、君のおかげで必ず成功する」


顧問の先生は、私の肩を叩き、そう言った。部長も、満面の笑みで頷いている。

私は、内心で安堵した。私の努力が認められた。私の存在が、この舞台にとって不可欠だと。


「ありがとうございます。でも、舞台監督のショウタの頑張りも大きいです。彼がいなければ、この舞台は完成しませんでした」


私は、そう答えた。それは、本心だった。彼への感謝の気持ちは、確かに私の心の中にあった。

しかし、その言葉を聞いた顧問の先生は、少し困ったような顔をした。


「ああ、ショウタ君ね……。確かに彼は頑張っている。だが、最近、少し覇気がないように見えるが、何かあったのか?」


顧問の先生の言葉に、私の胸が締め付けられた。

ショウタのことが、周囲にも気づかれている。彼が、どれほど疲弊しているのか。

しかし、私は、その事実を認めることができなかった。


「いえ、特に何も。彼は、舞台監督として、ただ完璧を追求しているだけだと思います」


私は、そう答えた。私の声は、私自身が驚くほど、冷淡だった。

顧問の先生は、私の言葉に、それ以上何も言わなかった。ただ、心配そうにショウタの方に視線を向けた。

ショウタは、舞台の隅で、一人黙々と、小道具の最終調整をしていた。彼の背中は、ひどく小さく、そして、孤独に見えた。


その日の夜、私は、旧体育館の倉庫へと向かった。

彼の姿を確認するため。

扉を開けると、そこには、真っ暗な空間が広がっていた。

彼が、もう帰ったのだと悟った。

いつもなら、この時間になっても、彼はここで作業をしていたはずなのに。


私は、倉庫の奥へと足を踏み入れた。

冷たい空気と、埃の匂いがする。

彼の作業台には、完成したばかりの舞台装置の模型が置かれていた。精巧で、美しい。

彼の技術は、本当に素晴らしかった。


私は、彼の作業台の上に、一枚の紙が置かれているのに気づいた。

それは、彼が使っていたスケッチブックの切れ端だった。

無造作に描かれた、一枚の絵。

そこには、舞台上でスポットライトを浴びる私の姿が、鉛筆で丁寧に描かれていた。

その絵は、まるで、私が彼の目にどのように映っていたのかを、物語っているようだった。

輝かしく、美しく、そして、どこか手の届かない存在として。


私は、その絵を手に取った。

その瞬間、一枚の紙が、スケッチブックの間に挟まっていることに気づいた。

それは、小さな手紙だった。

ショウタの文字で、走り書きされている。


『もう、君の言葉は、何も響かない。僕にとって、君は舞台上の仮面を被った怪物でしかない』


私は、その言葉を読んだ瞬間、体が凍り付いた。

それは、未来の、彼からの言葉。

いや、彼が、既に私のことをそう思っている、という証拠だった。

私の歪んだ愛情が、彼にとって、もはや「愛」ではなかったのだ。

ただの、彼を苦しめる「悪意」だったのだ。

彼の心は、もう、私から完全に離れてしまっていた。

彼の私への愛情は、深い傷と憎しみへと変わってしまっていた。


その事実が、私の心を、音を立てて砕いた。

私は、彼を失ったのだ。

私自身の手で、彼を、完全に打ち砕いてしまったのだ。


手紙が、私の指先から、はらりと音を立てて床に落ちた。

私は、その場に崩れ落ちた。

涙が、とめどなく溢れ出す。

それは、これまで私が抑え込んできた、すべての感情が爆発したかのような、激しい涙だった。

後悔、絶望、そして、彼を失った悲しみ。

それらすべてが、私の心を支配した。


******


その夜、私は、ほとんど眠れなかった。

ショウタの言葉が、私の頭の中で、何度も反響する。

「仮面を被った怪物」

それが、彼の目に映る、私自身の姿だった。

私が、舞台の成功を追求するあまり、彼の心を、どれほど踏みにじってきたのか。

私は、ようやく、その大きさに気づいた。

しかし、もう遅い。

時間は、戻らない。


翌日の稽古で、私は、ショウタに声をかけようとした。

しかし、彼は、私と目を合わせようとはしなかった。

彼の表情には、何の感情も浮かんでいない。

まるで、そこにいるのが、彼自身ではないかのように。

彼は、ただ、機械のように、舞台監督としての役割をこなしているだけだった。

彼の心は、もう、どこにもいなかった。

完全に、私から離れてしまっていた。


私は、その事実を、受け止めるしかなかった。

私が彼に与え続けた「悪意」が、彼を完全に変えてしまったのだ。

あの頃の、私を愛し、私の舞台を支えてくれたショウタは、もうどこにもいなかった。

彼が私を憎むのは、当然のことだった。

私は、彼から、すべてを奪ってしまったのだから。


文化祭当日が、刻一刻と迫っていた。

舞台は、まさに、最高の完成度を誇っていた。

しかし、その裏側で、私とショウタの関係は、徹底的に破滅していた。

私が得たものは、舞台の成功と喝采。

そして、私が失ったものは、彼への愛と、彼からの信頼。

それは、あまりにも大きな代償だった。

私は、この後悔を、一生抱えて生きていかなければならない。

そのことを、私は、すでに理解していた。

そして、この物語が、誰も救われない、悲劇的な結末を迎えることを、私は、静かに見守るしかなかった。

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