第十二話:最後の調整、虚ろな職人
文化祭当日。
朝早くから学校は熱気に包まれていた。色とりどりの模擬店の準備が進み、生徒たちの賑やかな声が校舎に響き渡る。その喧騒は、まるでこれから始まる祭りの始まりを告げているかのようだった。
演劇部は、体育館で最終準備に追われていた。部員たちは皆、疲労の色を隠せないでいたけれど、その表情には、いよいよ本番を迎えるという高揚感が満ちていた。
私は、主役として、すでにメイクを終え、衣装に身を包んでいた。鏡に映る自分の顔は、完璧な役の表情をしていた。しかし、その完璧な仮面の下で、私の心は激しく波打っていた。
ショウタは、舞台の隅で、一人黙々と作業を続けていた。
彼の背中には、疲労が色濃く滲んでいる。数日前から、ほとんど眠れていないのだろう。
彼の動きは、機械的で、一切の感情が感じられない。まるで、彼自身が、舞台装置の一部になったかのように。
私は、彼の元へ歩み寄ろうとした。
しかし、その一歩を踏み出すことができなかった。
あの夜、倉庫で目にした彼の言葉が、私の足枷になっていた。
『僕にとって、君は舞台上の仮面を被った怪物でしかない』
その言葉が、私の心を深く縛り付けている。
彼が、私を拒絶している。その事実が、私を打ち砕いた。
******
開場まで、あと一時間。
体育館には、観客が徐々に集まり始めていた。
ショウタは、舞台裏で、最終チェックを行っていた。照明の角度、音響のバランス、大道具の固定。彼の目は、寸分の狂いも許さない。
彼は、全ての細部に、神経を研ぎ澄ませていた。
私は、舞台袖から、彼の仕事ぶりを見ていた。
彼の指先は、細かな調整を加え、彼の耳は、微かな異音も聞き逃さない。
彼は、最高の舞台を作り上げるために、最後の最後まで、その身を削っていた。
私は、彼の横顔に、言葉にならない感情を抱いていた。
それは、彼への尊敬。
彼への感謝。
そして、彼をこれほどまでに追い詰めてしまった、私自身の罪悪感。
その時、一人の後輩部員が、ショウタに声をかけた。
「ショウタ先輩、少し休憩しませんか?顔色が悪いですよ」
後輩の声は、ショウタを気遣う、優しい響きだった。
しかし、ショウタは、その言葉に何の反応も示さなかった。
彼は、ただ、黙って首を横に振る。
「大丈夫です。まだ確認することがありますから」
彼の声は、平坦で、感情がこもっていなかった。
後輩は、困ったように眉を下げたが、それ以上何も言わなかった。
彼らは、ショウタの頑なな態度に、どうすることもできない、という顔をしていた。
私は、その光景を、舞台袖の影から見つめていた。
彼の周囲から、人が離れていく。
彼が、自ら孤独を選んでいるかのように。
いや、私が、彼を孤独に追いやったのだ。
******
開演五分前。
体育館は、満員御礼。客席は、観客たちのざわめきと、期待の声で満ち溢れていた。
舞台裏は、最終確認の緊張感に包まれている。
私は、舞台袖の定位置に立つ。胸が高鳴る。
これが、私たちが作り上げてきた、最高の舞台。
ショウタが、私に近づいてきた。
彼は、私の顔を見ようとしない。
ただ、舞台の注意事項を、機械的に私に伝えた。
「メイ、舞台の転換は、いつもより少し早くする。それに合わせて、照明も早めに切り替わる。確認しておけ」
彼の声は、冷たく、感情がこもっていなかった。
私は、彼の言葉に、無言で頷いた。
何か、言いたい。
謝りたい。
もう一度、彼の温かい声を聞きたい。
しかし、私の口からは、何も言葉が出てこなかった。
彼は、私の返事を確認すると、すぐに舞台袖の奥へと消えていった。
彼の背中は、ひどく遠く見えた。
もう、私の声は、彼には届かない。
彼の瞳は、私にとって、永遠に閉ざされてしまったのだ。
その瞬間、私は、自分がどれほど愚かだったかを悟った。
私が求めたのは、舞台の成功だった。
私が手に入れたのは、舞台上の喝采だった。
しかし、その代償は、あまりにも大きすぎた。
私は、彼を失った。
私を、誰よりも理解し、支え、愛してくれた彼を。
その全てを、私自身の手で、壊してしまったのだ。
幕が上がる。
スポットライトが、私を照らす。
私は、舞台上の「私」を演じ始める。
完璧な台詞。完璧な演技。
観客は、私の演技に、引き込まれていく。
しかし、私の心は、舞台上にはなかった。
私の心は、舞台裏の闇の中にいた。
そこで、一人、黙々と作業を続けるショウタの姿を、私は見続けていた。
彼は、私の演技を、最高の形で支えてくれている。
彼は、私にとって、最高の舞台監督だった。
そして、私は、彼にとって、最高の主役だったのかもしれない。
けれど、もう、私たちは、それ以上にはなれない。
舞台の照明が、ゆっくりと切り替わる。
それは、物語の転換を告げる光。
しかし、私にとって、それは、私たちの関係が、完全に終わったことを告げる光でもあった。
私の胸の奥で、静かに、何かが崩れていく音がした。
それは、舞台裏で、音もなく崩れていく、私の心の残骸だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。