第九話:演技の集中、見過ごされた痛み
文化祭まで一週間を切っていた。演劇部の練習は、まるで狂気じみたものになっていた。私たちは朝早くから集まり、日付が変わるまで稽古に打ち込んだ。
私の頭の中は、主役としての演技で埋め尽くされていた。台詞を反芻し、体の動きを修正し、表情の細部にまで意識を集中させる。舞台上での「私」は、完璧でなければならなかった。
そんな状況の中で、私は、ショウタの心の変化に気づかないふりをしていた。
あるいは、気づかない「演技」をしていたのかもしれない。
彼を傷つける言葉を吐き出すたびに、心の奥底でチクリと痛みが走る。それでも、私はその痛みを無視し、舞台の成功という目標だけを見つめ続けた。
******
ある日の深夜、体育館の稽古後。
ほとんどの部員が帰った後も、私とショウタ、そして数人の主要メンバーだけが残っていた。
私は、今日の稽古で納得がいかなかったシーンを、何度もやり直させていた。特に、舞台転換のタイミングが私のイメージとずれていることに、激しい苛立ちを感じていた。
「ショウタ、だからそこじゃないって言ってるでしょ!なんで何度言ってもわからないの?」
私の声は、疲れと苛立ちで、さらに鋭さを増していた。
ショウタは、舞台装置の部品を手に、黙って私の言葉を聞いている。彼の顔は、疲労困憊で青白く、目の下には濃いクマができていた。
「もう少し、正確に……」
ショウタが、かすれた声で何かを呟く。しかし、彼の言葉は、もはや私には届かなかった。
「もう少し、じゃないのよ!本番までもう時間がないの!あなたのミスが、私の演技の邪魔になるって、いい加減気づいてよ!」
私の言葉は、完全に感情に任せたものだった。周囲の部員たちが、不安そうに私とショウタの顔を交互に見る。彼らの表情には、同情と、そして、私への恐れが浮かんでいた。
「メイ先輩、もう終わりにしましょう。ショウタも疲れてるし……」
部長が、恐る恐る私に声をかけてきた。
しかし、私は、その言葉に激しく反論した。
「疲れてる?そんなこと言ってる暇があったら、もっと努力しなさいよ!最高の舞台を作るために、私たちは妥協なんて許されないの!」
私の剣幕に、部長はそれ以上何も言えなくなった。
ショウタは、私から視線を外し、再び舞台装置の調整に戻った。彼の指先が、わずかに震えているのが見えた。
私は、彼の震えに気づいていた。
彼の心が、音を立てて崩れていくのが、わかっていた。
それでも、私は止めることができなかった。
まるで、麻薬に溺れる者のように、彼を傷つけることで、私自身の心を保っているような、そんな感覚だった。
******
その日も、ショウタは私よりも遅くまで、旧体育館の倉庫で作業をしていた。
私は、眠りにつく前に、ふと、彼のことが気になり、倉庫へと向かった。
扉の隙間から、薄明かりが漏れている。
中に入ると、彼は、台車の上に無造作に置かれた段ボール箱に座り込み、天井を見上げていた。
彼の隣には、使いかけの工具が散らばっている。
彼の顔は、さらにやつれていた。目は窪み、頬はこけている。
その姿は、まるで、生きる気力を失った老人のようだった。
「ショウタ」
私の声に、彼はゆっくりと視線を落とした。その目には、私への感情は何も宿っていなかった。
ただ、疲労と、そして、深い虚無感が広がっているだけだった。
「もう帰らないの?」
私が問うと、彼は小さく首を横に振った。
「もう少し、やっておくことがあるから」
彼の声は、平坦で、まるで棒読みのようだった。
私は、彼の隣に座り込もうとした。しかし、その時、床に転がっていた一本の釘が、私の目に入った。
それは、舞台装置を組み立てる際に使う、ごく普通の釘だった。
しかし、その釘の先に、赤黒いものが付着しているのに気づいた。
私は、恐る恐るその釘を拾い上げた。
微かに血の匂いがした。
私の視線が、彼の指先に向けられる。
彼の右手の親指の爪は、真っ黒に変色し、その付け根からは、血が滲んでいた。
彼は、その怪我に、全く気づいていないかのように、ただ、虚ろな目をして天井を見上げている。
「ショウタ、これ…」
私が声をかけると、彼はハッと我に返ったように、慌てて指を隠した。
「大丈夫だ。ちょっとぶつけただけだから」
彼の声は、わずかに震えていた。
私は、彼の震える指を見て、胸が締め付けられるような痛みを覚えた。
彼は、私との関係が冷え切ってから、怪我をすることが増えていた。工具で手を傷つけたり、重いものを運び損ねて足をひねったり。
それは、彼の心が、既に限界に達している証拠だった。
しかし、私は、そのことにも気づかないふりをしていた。
「早く手当てしなきゃ」
私が立ち上がろうとすると、彼は私の腕を掴んだ。
彼の指先は、冷たく、そして、力がなかった。
「いいから。それよりも、メイは早く休んで」
彼の言葉に、私は、何も言い返せなかった。
彼は、私が彼の怪我を心配する資格など、もうない、と言っているようだった。
私は、立ち尽くしたまま、彼の横顔を見つめた。
その顔は、まるで、感情を失った彫像のようだった。
私は、彼に、何をしてしまったのだろう。
彼の心を、こんなにも深く傷つけ、彼の体を、こんなにも疲弊させて。
私は、彼にとって、もはや「愛する幼馴染」ではなかった。
ただの、彼を苦しめる「怪物」だったのだ。
******
文化祭当日が迫っていた。
舞台の完成度は、完璧だった。
しかし、私の心は、その完璧さとは裏腹に、深い後悔と絶望に苛まれていた。
ショウタは、私とほとんど目を合わせなくなった。
彼と交わす言葉は、舞台の指示に関することだけ。
それも、必要最低限の、機械的な会話だった。
彼の存在が、私にとって、遠く、手の届かないものになっていく。
私は、彼との間に築き上げてきた絆を、私自身の手で、粉々に砕いてしまったのだ。
あの夏の夜、彼と交わした夢。
最高の舞台を作り上げ、そこで輝く私の姿。
しかし、その夢は、彼にとって、もはや悪夢に変わっていたのかもしれない。
私が輝けば輝くほど、彼の心は、深く闇に沈んでいく。
私は、その事実に、もう気づかないふりをすることはできなかった。
これは、私の物語。
そして、私が彼を、深く、深く、傷つけた物語。
舞台の成功と引き換えに、私が失ったもの。
その大きさに、私は、まだ耐えることができていなかった。
しかし、物語は、容赦なくクライマックスへと向かっていた。
そして、その結末が、いかに悲劇的なものになるのか、私は、まだ知る由もなかったのだ。
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