第六話:小道具の誤算、刺さる言葉
部内の空気は、日ごとに張り詰めていった。文化祭が迫り、誰もが神経質になっていた。特に、私とショウタの間には、氷のような壁が築かれていた。私は、役者として、彼を舞台監督として、完璧であることを要求し続けた。
ある日の稽古中、それは起こった。
舞台は、物語の核心に迫るクライマックスのシーン。私は、感情を爆発させるように台詞を放ち、舞台中央に置かれた古い書物を手に取ろうとした。しかし、その書物が、私の指先から、するりと滑り落ちた。
ゴトリ、と鈍い音が、静まり返った体育館に響き渡る。
それは、たった一つの、小さな小道具の誤算だった。
演出上、その書物は、私が力強く掴み、感情をぶつけるべき重要なアイテムだった。それが、私の手から落ちたことで、シーンの緊迫感は台無しになった。
私は、瞬時に舞台上の演技を中断し、ショウタに視線を向けた。彼は、舞台袖で、いつものように冷静に指示を出す準備をしていたはずだった。しかし、その時、彼は、まるで固まってしまったかのように、その場に立ち尽くしていた。
「ショウタ!」
私の声が、体育館に響き渡った。その声には、怒りとも、焦りともつかない感情が込められていた。
「どういうこと?この小道具、ちゃんと固定したの?こんなことが本番で起こったら、どうするつもりなのよ!」
私は、舞台の真ん中から彼を責めた。部員たちが、不安そうに私とショウタの顔を交互に見る。ショウタは、顔を真っ青にして、ゆっくりと舞台中央に歩み寄ってきた。
「すまない、メイ。僕が確認を怠った。すぐに直す」
彼は、落ちた書物を拾い上げ、小道具係の部員に、何か指示を出そうとした。しかし、私はそれを許さなかった。
「もういい!そんな簡単なミスもできないなら、舞台監督なんて名乗らないでよ!あなたは、私に、最高の舞台を提供することができないの?」
私の言葉は、彼を完全に打ち砕いた。
ショウタは、その場で、ぐっと唇を噛みしめた。彼の瞳に、諦めと、そして、深い絶望の色が浮かんだのが見えた。
「僕が、舞台を台無しにするって言いたいの?」
彼の声は、蚊の鳴くような、か細いものだった。
「そうよ!こんなミスばかりしていたら、そうなるわよ!私の演技が、あなたのせいで台無しになることだってあるんだから!」
私は、感情に任せて、さらに言葉を重ねた。後には引けなかった。ここで引けば、私が築き上げてきた「完璧なエース」というイメージが崩れてしまう。そう、思ってしまったのだ。
彼の顔から、すべての感情が消え去った。彼の目は、まるでガラス玉のように、虚ろだった。
部員たちも、息を殺して、私たち二人を見つめていた。誰も、口出しできない。そんな空気が、体育館を支配していた。
「……すまない」
ショウタは、それだけを呟くと、私の横をすり抜け、舞台袖へと戻っていった。彼の背中は、いつもよりも小さく、そして、どこか震えているように見えた。
私は、その日の稽古をそのまま続行させた。何事もなかったかのように、台本を読み上げ、演技を続ける。しかし、私の心は、凍り付いたままだった。
練習後、部員たちが片付けを終えて帰っていく中、私はショウタの姿を探した。しかし、彼はどこにもいなかった。
******
その夜、私は、旧体育館の倉庫へ向かった。
そこは、ショウタがいつも、一人で作業に没頭している場所だった。
重い扉を開けると、薄暗い倉庫の奥から、微かな光が漏れているのが見えた。
彼は、作業台に広げた設計図を前に、木材を加工していた。電動ノコギリの音が、静かな倉庫に響く。
彼の横顔は、いつも以上に疲労に満ちていた。額には、脂汗が滲んでいる。
「ショウタ」
私の声に、彼はピタリと手を止めた。しかし、振り返ろうとはしない。
「何を、作っているの?」
私が問うと、彼はゆっくりと、私の方へ体を向けた。彼の手に持っていたのは、今日の稽古で使っていた書物だった。彼は、その書物の背表紙に、小さな飾り付けを施していた。
「書物の重さが、少し軽すぎたみたいだから。安定するように、中に重りを入れようと思って」
彼の声は、平坦だった。感情の揺らぎが、一切感じられない。
私の、今日の厳しい言葉を、彼は何とも思っていないのだろうか。それとも、もう、何も感じないほどに、疲弊してしまっているのだろうか。
「……私が、悪かった」
私は、ようやく、そう言葉を絞り出した。私の声は、震えていた。
彼を傷つけた罪悪感が、私の心を締め付ける。
しかし、ショウタは、私の言葉に何の反応も示さなかった。
「別に、メイが悪いわけじゃない。僕の確認不足だ」
彼の言葉は、私に向けられたものではなかった。ただ、事実を淡々と述べているだけのように聞こえた。
「違う!私は、あんな言い方、するべきじゃなかった。ごめん…」
私がさらに謝罪しようとすると、彼は私の言葉を遮った。
「もういいよ、メイ。これは仕事だから」
「仕事?」
彼の言葉に、私は驚きを隠せない。
彼は、私の目を見て、静かに言った。
「そう。僕の仕事は、メイが最高の演技をできる舞台を、完璧に作り上げること。ただ、それだけだ」
彼の瞳に、かつてあった私への優しさや、特別な感情は、もう何も残っていなかった。そこにあるのは、ただ、舞台監督としての義務感と、諦めにも似た虚無感だけだった。
彼は、私を、感情を持たない「役者」として、自分を「舞台監督」として、区別しているようだった。
彼の言葉は、私に、ナイフのように突き刺さった。
私たちは、幼馴染だ。
互いに、特別な感情を抱き合っていたはずの、私たちだ。
それなのに、彼は、私を「仕事相手」としか見ていないと言うのか。
私は、息が詰まるような感覚に陥った。
喉の奥から、何か熱いものがこみ上げてくる。
ショウタは、再び書物に目を落とし、作業を再開した。電動ノコギリの音が、虚しく響く。
私は、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
彼の背中は、相変わらず、私に何も語りかけなかった。
私は、彼に、何を期待し、何を求めていたのだろう。
そして、私は、彼に、何をしてしまったのだろう。
この日を境に、私たちの間に、決定的な亀裂が走った。
それは、修復不可能なほどに深い亀裂だった。
彼の心は、もう、私の手には届かない場所に、行ってしまったのだ。
私は、その事実を、静かに受け止めるしかなかった。
舞台の成功と引き換えに、私が失ったものの大きさに、私は、まだ気づいていなかった。
それは、私の想像をはるかに超える、重く、そして、深い絶望の始まりだった。
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