第2章:歪み始めた旋律

第五話:主役の重圧、過剰な期待

文化祭まで、あと一ヶ月。練習はさらに苛烈を極めていた。

私は、主役として、演技の細部にまで神経を研ぎ澄ませた。台詞の一言一句、体の動き、表情のわずかな変化。すべてが、完璧でなければならなかった。

顧問の先生は、私の演技に満足することなく、常に高みを目指すよう求めた。


「メイなら、もっとできるはずだ。その程度で満足するな」


その言葉は、私を奮い立たせる反面、底知れない不安を私にもたらした。私は、この期待に応えなければならない。そうすることで、私自身の存在価値を証明できる、と信じていた。

だから、私は、疲労やストレスを顔に出すことなく、ただひたすらに、完璧な「私」を演じ続けた。


そんな私の視界は、次第に狭くなっていった。私の頭の中は、舞台と役のことだけだった。

周囲の人間関係も、すべてが「舞台の成功」のためにあるように感じていた。

ショウタの存在も、その一つだった。彼は、最高の舞台を作り上げるための、私の最も重要な「道具」だった。


******


ある日の放課後、体育館での稽古中のことだった。

その日は、舞台転換のタイミングが、何度やってもうまくいかなかった。大道具の運び出しが遅れ、次のシーンへの流れが途切れてしまう。

部員たちは、連日の稽古で疲弊し、集中力を欠き始めていた。そんな中で、ショウタもまた、苛立ちを募らせているのが見て取れた。

彼は、何度も同じ指示を繰り返している。


「もっと早く!次のセット!」

「そこじゃない、もっと奥だ!」


彼の声は、いつもより少し荒かった。

私は、舞台上で、次の台詞を待っていた。しかし、セット転換がうまくいかないせいで、稽古の流れが完全に止まってしまっていた。


「ショウタ!」


私の声が、体育館に響き渡る。

ショウタが、ハッと顔を上げて私を見た。その目には、焦りが浮かんでいた。


「何やってるの?今の転換、全然ダメじゃない。こんなことじゃ、本番で観客の集中が途切れるわよ」


私の声は、私自身が驚くほど冷たく、鋭かった。

ショウタは、何も言わなかった。ただ、唇をきつく結び、俯いた。


「どうして、指示が徹底できないの?あなたは舞台監督でしょ?全員を完璧に動かすのがあなたの仕事でしょ!」


私は、彼に詰め寄った。

部員たちが、私たち二人のやり取りを、固唾を呑んで見守っている。

彼らの視線が、私に、そしてショウタに突き刺さる。


「僕が、もう少し、ちゃんと…」


ショウタが、途切れ途切れに何かを言おうとする。しかし、私はその言葉を遮った。


「『もう少し』なんて、本番じゃ誰も待ってくれないの!こんなことじゃ、私の演技も台無しになるわ!」


その言葉を吐き出した瞬間、私の胸に、わずかな後悔の念がよぎった。しかし、それは、すぐに「舞台を成功させたい」という焦燥感に掻き消された。

私は、彼に「完璧」を求めていた。私と同じくらい、舞台に執着し、妥協しないことを。


ショウタは、とうとう何も言わなくなった。

彼は、真っ青な顔で、ただ立ち尽くしていた。

彼の目が、私から完全に逸らされた。


「やり直し!今のシーン、もう一度最初から!」


私は、部員たちに指示を出し、再び自分の立ち位置に戻った。

ショウタは、私から背を向け、部員たちに、無言でセット転換の指示を出している。彼の動きは、いつもより、どこかぎこちなかった。


******


その日以来、私のショウタへの態度は、一層厳しくなった。

些細なミスも許さない。

彼の仕事に、少しでも不備があれば、容赦なく叱責した。

それは、舞台の完成度を高めるためだと、自分自身に言い聞かせていた。

しかし、その実、私の中には、彼への歪んだ独占欲が渦巻いていたのかもしれない。

彼が、私にだけ特別であることを、彼の存在が、私の舞台にとって不可欠であることを、私自身に言い聞かせたかったのかもしれない。


他の部員たちは、私とショウタの間の凍り付いた空気に気づき始めていた。

休憩時間になると、彼らは私に遠慮するように、そっとショウタから距離を置くようになった。

そして、彼らの視線は、同情と、わずかな好奇心を含んで、ショウタに注がれた。


ある日、私が稽古中に喉を痛めてしまった時があった。

声が出なくなり、台詞がかすれてしまう。

私は、焦りを感じ、内心ひどく苛立っていた。

その日の練習後、ショウタは私に近づいてきた。

彼の手に持っていたのは、温かいハーブティーだった。


「これ、喉にいいって聞いたから」


彼は、マグカップを私に差し出した。

いつかの夏合宿の夜と同じように、温かい湯気が立ち上っていた。

しかし、その時、私の口から出た言葉は、彼の優しさとはかけ離れたものだった。


「そんなことしてる暇があったら、もっと舞台のことを考えてよ。私の喉が潰れたら、誰が主役を演じると思ってるの?」


私の言葉に、彼の顔から、わずかに残っていた血の気が引いていくのがわかった。

彼は、何も言わずにマグカップを置き、そのまま私に背を向けた。

立ち去ろうとする彼の背中に、私は追い打ちをかけるように言った。


「全く、使えないんだから」


私の声は、体育館の冷たい空気に吸い込まれていった。

彼は、一度も振り返らなかった。

その日から、彼が私に、何かを差し出すことはなくなった。

彼の目には、もう、私に対する心配や優しさの光は宿っていなかった。

それは、舞台監督として、ただ淡々と、私に、そして舞台と向き合う目だった。


私は、その変化に、内心でひどく焦っていた。

彼が、私から離れていく。

そう感じながらも、私は、自分の感情をコントロールすることができなかった。

彼の反応が薄くなればなるほど、私はさらに彼を突き放すような言動をしてしまう。

まるで、彼が完全に私の前から消えてしまう前に、私自身が彼を拒絶してしまえば、傷つくのは私ではない、とでもいうように。

そんな、愚かな考えに囚われていた。


文化祭まで、あとわずか。

舞台の完成度は、日を追うごとに高まっていった。

しかし、私とショウタの関係は、舞台の輝きとは裏腹に、深く、深く、沈んでいっていた。

私が彼に与えたのは、期待という名の重圧。

そして、それは、やがて彼を打ち砕く、冷たい言葉の刃となるのだ。

私たちは、すでに、戻ることのできない道を歩み始めていた。

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