第四話:文化祭の足音
夏合宿が終わり、私たちの日常は一変した。文化祭まで残り三ヶ月。演劇部の熱は、一気に最高潮に達した。
私は、主役として、今まで以上のプレッシャーを感じていた。顧問の先生や先輩たちからの期待の眼差しが、私にとって、何よりも重いものになった。
彼らは、私の演技のわずかなズレも許さなかった。「メイなら、もっとできるはずだ」「妥協は許されない」。その言葉は、私を奮い立たせる一方で、見えない鎖のように私を縛り付けた。
練習は、朝練から放課後、そして夜遅くまで続いた。放課後の教室で台本を読み込み、発声練習を繰り返す。体育館の舞台では、実際の動きを伴う稽古が始まる。
私は、役の感情に深く入り込み、その人物として生きることに集中した。役の悲しみ、怒り、喜び。それらすべてを、私の体を通して表現する。
その過程で、私は次第に、周囲のことが見えなくなっていった。私の頭の中は、舞台と役のことだけだった。
ショウタもまた、忙殺されていた。
舞台監督として、彼は舞台のすべてを把握し、管理しなければならない。脚本の変更に伴うセットの修正、照明プランの調整、音響機材の選定。彼の仕事は多岐にわたった。
旧体育館の倉庫にこもり、一心不乱に作業する彼の姿を、私は何度も目にした。
彼の手は、常に木屑や絵の具、そして汗で汚れていた。その疲れきった顔を見るたび、私はほんの少しだけ、胸が痛んだ。
しかし、その痛みは、すぐに「舞台を成功させたい」という私の強い願望に掻き消された。
私は、最高の舞台で、最高の演技をしたい。
そのために、ショウタには、完璧に、私を支えてもらわなければならない。
私は、無意識のうちに、彼に「完璧な舞台監督」であることを求めていた。
それは、私自身の完璧への追求が、そのまま彼へと向けられたものだったのかもしれない。
******
ある日の放課後、体育館での全体練習でのことだった。
舞台の転換の練習中に、ショウタが指示を出した。
「次のシーン、セット転換!」
しかし、大道具を動かす部員の一人が、少しタイミングをずらしてしまった。ほんのわずかなズレ。素人目には気づかない程度のものだったかもしれない。
だが、その瞬間、私の声が体育館に響き渡った。
「ストップ!」
私の声に、すべての動きが止まる。部員たちが、一斉に私を見る。
私は、大道具の横で立ち尽くすショウタに、まっすぐ視線を向けた。
「ショウタ、今のタイミング、ずれてたよ」
私の声は、低く、冷たい響きを帯びていた。
ショウタは、一瞬たじろいだように見えた。
「す、すまない、メイ。もう少しで、完璧に…」
彼の言葉を遮るように、私は続けた。
「もう少し、なんて、舞台の上では通用しない。完璧じゃなきゃ意味がないの。こんな些細なミスが、舞台全体の流れを台無しにするって、わかってる?あなたは舞台監督でしょ?全員に、完璧な指示を出してよ!」
私の言葉は、体育館中に響き渡った。部員たちが、顔を見合わせる。
ショウタは、何も言い返さなかった。ただ、唇をきつく結び、俯いたまま、私の言葉を聞いていた。
「やり直し!もう一度、完璧なタイミングでやって!」
私の指示に、ショウタは無言で頷き、再び部員たちに指示を出し始めた。
その日の練習は、いつも以上にピリピリとした空気の中で進んだ。
私は、完璧な舞台を作り上げるために、一切の妥協を許さなかった。
練習が終わると、部員たちは疲弊しきった顔で、ぞろぞろと体育館を後にした。
ショウタもまた、道具の片付けを終えると、すぐに体育館を出ていこうとした。
私は、彼を呼び止めた。
「ショウタ」
彼は、振り返らなかった。
「今日の私の演技、どうだった?」
私が問うと、彼はゆっくりと振り返った。その顔は、疲労で影を落としている。
「完璧だったよ、メイ」
彼の声は、感情のこもらない、平坦なものだった。
私は、その声に、言いようのない苛立ちを覚えた。
「それが、舞台監督の言うこと?もっと他に、言うことないの?」
「……ないよ」
彼は、私から目を逸らして、そう呟いた。
その瞬間、私の胸に、冷たい鉛が流れ込んだようだった。
いつもなら、私の演技について、熱心に語ってくれたショウタ。私の悩みに、真剣に耳を傾けてくれたショウタ。
そんな彼は、もうどこにもいなかった。
彼は、ただの「完璧な舞台監督」として、私と向き合っているようだった。
「そう。わかったわ」
私は、それ以上、何も言えなかった。
彼が私から離れていくような、そんな錯覚に陥った。
それでも、私は、彼の心を掴むために、彼の注意を引くために、無意識のうちに、彼を傷つける言葉を選んでしまう。
その夜、私は自室の鏡の前で、今日の自分の言動を反芻していた。
なぜ、あんな風に、彼を責めてしまったのだろう。
心の中では、彼の疲れを心配し、彼に感謝していたはずなのに。
しかし、口から出てくる言葉は、いつも、私自身の本心とは裏腹なものばかりだった。
それは、彼に「もっと頑張ってほしい」という期待と、彼を「誰にも渡したくない」という独占欲が入り混じった、私自身も理解できない感情の表れだった。
まるで、私の心の中に、私自身も制御できない「怪物」が棲みついているようだった。
******
それからというもの、私とショウタの間の距離は、次第に広がっていった。
以前のように、旧体育館の倉庫で二人きりになることもなくなった。
部活動中も、彼は私から目を合わせようとせず、必要最低限の指示しか出さなくなった。
彼の表情から、感情が消えていく。まるで、彼自身が、舞台装置の一部になってしまったかのように。
他の部員たちも、私たちの変化に気づき始めていた。
彼らは、私の厳しい言動を「メイ先輩、ショウタに辛辣だよね」と囁き始める。
そして、私に同調するように、ショウタをからかうような言動が増えていった。
「ショウタ、またメイ先輩に怒られるぞー」
「お前、どんだけドジなんだよ」
そんな言葉が、彼らの間を飛び交う。
私は、それらの言葉を聞いて、内心、罪悪感を感じていた。
しかし、私はそれを止めることができなかった。
むしろ、「演技の集中」という大義名分を盾に、彼らのいじめを黙認してしまった。
時には、私自身も、彼らの言葉に便乗し、ショウタを貶めるような発言をしてしまうこともあった。
「全く、ショウタは本当に手がかかるんだから」
そう言って、私自身も、彼らの笑い声に加わった。
そうすることで、私は、彼を私だけのものにできるような気がした。
彼が、私にだけ特別な感情を抱き、私にだけ尽くしてくれる、そんな存在でいてくれると。
それは、歪んだ愛情だった。
いや、もはや愛情などと呼べるものではなかったのかもしれない。
ただの、私のエゴイズム。
私の身勝手な支配欲が、彼を追い詰めていく。
ショウタは、そんな私の言動にも、一切の反論をしなかった。
彼は、ただ、黙々と自分の作業をこなし、私の指示に従い続けた。
彼の背中は、日に日に小さく見えた。
私は、その背中が、遠く、遠く、離れていくのを感じていた。
文化祭の足音が、刻一刻と近づいてくる。
舞台は、着実に完成へと向かっていた。
しかし、その輝かしい舞台の裏側で、私とショウタの絆は、音もなく、静かに、ひび割れていっていた。
あの頃の私は、まだ気づいていなかったのだ。
このひび割れが、やがて、私たち二人を飲み込む、深い亀裂となることを。
そして、この物語が、誰も救われない、悲劇の舞台へと、一歩ずつ進んでいることを。
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