第三話:夏の合宿、芽生える絆
あの夏合宿は、私たち演劇部にとって、そして私とショウタにとって、特別なものだった。
文化祭で上演する演目の大まかな方向性が決まり、本格的な稽古が始まる直前。私たちは、郊外にある合宿施設に集まった。
緑豊かな山の中。蝉の声が降り注ぎ、夜には満点の星空が広がる。そんな場所での共同生活は、部員たちの絆をより一層深めるはずだった。
私は、主役の座を射止めることに燃えていた。誰もが認める、最高の演技をしたい。その一心で、台本を読み込み、役の感情と向き合った。
発声練習。筋力トレーニング。表現のワークショップ。朝から晩まで、演劇漬けの日々。体は疲弊しきっていたけれど、心は満たされていた。
夜になっても、私の情熱は冷めなかった。他の部員たちが消灯して眠りについた後も、私は一人、宿舎の談話室で台本を広げ、声を抑えて台詞を反芻した。
ある夜のことだった。
談話室の明かりが、私の頭上から静かに降り注いでいた。台本の文字が、まるで星の瞬きのように見えた。
すると、背後から、そっと温かいものが差し出された。振り返ると、そこにショウタが立っていた。手に持っていたのは、小さな魔法瓶と、湯気の立つマグカップ。
「休憩しないと、体がもたないよ」
彼は、私にマグカップを差し出した。湯気から、甘いココアの香りが立ち上る。
「ショウタ……どうしてここに?」
「メイがまだ起きてる気がしたから」
彼はそう言って、私の向かいの椅子に座った。静かにココアを啜る。私も温かいココアを口にした。じんわりと、体の芯まで温かさが染み渡っていく。
「私、もっと上手くなりたい。最高の舞台にしたいの」
私が呟くと、彼はマグカップをテーブルに置き、まっすぐに私を見つめた。
「メイは、もう十分にすごいよ。でも、その気持ち、すごくわかる。僕も、メイの最高の演技を支えるために、もっといい舞台を作り上げたいって思うから」
彼の言葉は、まるで魔法のようだった。私を励まし、私の情熱を肯定してくれる。
私は、彼にだけは、どんな弱音も吐けた。どんな悩みも打ち明けられた。
「ねえ、ショウタ」
「ん?」
「私ね、たまに、どうしようもなく不安になるの。本当に私に、この役が務まるのかって。みんなの期待に応えられるのかって」
普段、決して見せない弱音だった。エースとして、常に完璧でなければならない。そう自分に言い聞かせていたから、誰にも、この感情を打ち明けられなかった。
しかし、彼の前では、鎧を脱ぎ捨てることができた。
ショウタは、何も言わずに私の話を聞いてくれた。そして、私が話し終えると、そっと、私の頭に手を置いた。
「メイは、一人じゃないよ。僕たちがいる」
その手のひらから伝わる温もりが、私を包み込んだ。それは、私がずっと求めていた、安心感だった。
その夜、私たちは、星が輝く窓の外を眺めながら、二人で、たくさんの夢を語り合った。最高の舞台を作ること。そして、その舞台で、私たちがどこまで高みを目指せるのか。
その時間の中で、私たちの間に流れる空気は、これまでとは違う、特別なものへと変化していった。
彼は、私にとって、ただの幼馴染ではなくなった。
私が、心の底から、彼の隣にいたいと願う相手になった。
それは、言葉にはできない、確かな「愛」だった。
******
合宿期間中、ショウタは裏方の仕事に没頭していた。
休憩時間も惜しんで、来る日も来る日も、彼は体育館の隅で舞台装置の模型とにらめっこしていた。
私は、そんな彼の姿を、遠くから見つめていた。
彼の指先が、紙に描かれた線をなぞり、道具の配置を考え、光の角度を計算する。その真剣な横顔は、私にとって、何よりも美しいものだった。
ある日の夕方、私たちは、全員で肝試しをすることになった。
森の中の小道を、グループに分かれて歩く。
私は、ショウタと同じグループだった。
夜の森は、昼間とは違う顔を見せる。木々のざわめき、虫の声。わずかな物音にも、体がビクッと反応する。
私が、思わずショウタのTシャツの裾を掴むと、彼は振り返って、優しく微笑んでくれた。
「大丈夫だよ、メイ」
その声に、私はひどく安心した。
暗闇の中でも、彼の存在は、私にとっての光だった。
森の奥から、不気味な声が聞こえてくる。他のグループの生徒が、おどろおどろしい声を出して、私たちを脅かしているのだろう。
しかし、私は、もう怖くなかった。彼の隣にいれば、どんな暗闇も、怖くない。
私たちは、他の部員たちから少し離れて、ゆっくりと歩いた。
その時、足元が滑り、私は思わずバランスを崩した。
「わっ!」
転びそうになった私の体を、ショウタが咄嗟に支えてくれた。彼は、私を抱きかかえるようにして、しっかりと体を支えてくれた。
彼の腕の中にいると、心臓の音が、ドクン、ドクン、と大きく響くのがわかった。
彼の体温が、私の体に伝わる。
一瞬の出来事だったけれど、その感覚は、私の脳裏に深く焼き付いた。
それは、まるで、私たちが世界の中心にいるかのような、そんな錯覚を覚えるほどの、親密な瞬間だった。
「大丈夫か、メイ」
彼が心配そうに私を覗き込む。
彼の瞳が、月明かりを反射して、きらりと光った。
その時の彼の顔は、今でも鮮明に思い出せる。
その笑顔は、私にとって、どんな宝石よりも輝いて見えた。
「うん、大丈夫」
私は、彼の胸の中で、小さく頷いた。
その日から、私とショウタの関係は、確かに「特別なもの」として、私の心に深く刻み込まれた。
それは、誰にも邪魔されたくない、秘密の宝物。
私だけの、ショウタ。
******
合宿が終わり、私たちは日常へと戻った。
演劇部の練習は、さらに熱を帯びていった。
私は、主役として、誰よりも舞台の中心に立つ。
ショウタは、舞台監督として、誰よりも舞台の裏側を支える。
私たちは、それぞれの場所で、それぞれの役割を全うした。
しかし、私の中のショウタへの感情は、日々大きくなっていった。
彼は、私の演技のすべてを知っている。
私の努力も、私の弱さも、すべて。
私にとって、彼は、最高の理解者であり、唯一無二の存在だった。
私は、彼が他の部員たちと話しているのを見ると、なぜだか胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
彼が、私以外の誰かに、あんな風に優しい笑顔を見せるのが、許せない。
それは、まるで、私が彼のすべてを独占したい、という、幼い独占欲にも似た感情だった。
この時の私は、まだ、それがどんなに恐ろしい感情へと発展していくのか、知る由もなかった。
この、ささやかな独占欲が、やがて彼の心を蝕み、私たちの関係を破壊する毒となることを。
私は、彼の存在が、私の演技にとって、不可欠なものだと感じていた。
彼がいるから、私は最高の演技ができる。
彼がいるから、私は舞台の上で輝ける。
だからこそ、私は、彼に「完璧」を求めた。
私の理想の舞台を、完璧に作り上げてくれることを。
私の期待を、完璧に満たしてくれることを。
──それは、愛だったのだろうか。
それとも、ただの、傲慢な期待だったのだろうか。
あの夏の夜、彼の腕の中で感じた温もり。
彼の瞳の中に映った、私の姿。
それら全てが、今となっては、遠い幻のようだ。
あの輝かしい日々が、やがて来る破滅の序章であったことを、私はまだ知らなかった。
私たちの物語は、まだ、始まったばかりだった。
そして、その物語が、いかに悲劇的な結末を迎えるか、その時の私は、想像することさえできなかったのだ。
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