三
「散歩に行ってこようと思います」
キモ山さん手製のサンドウィッチを食べ終えた俺は、何か出来ることはないかを真っ先に考えた。あまりに情報のない現状では、昨日に諦めた探索を継続するくらいが精々思い付いた案だ。とはいえ、何もしないよりはマシだろう。
「散歩?」
「はい。ちょっと、頭の整理も兼ねて」
実際のところ、キモ山さんに訊きたいことが山の様にある。しかし、何をどう訊くべきか、先に整理しておきたいのだ。
「一人で大丈夫?」
「大丈夫だと思います。……外の道を進もうと考えているんですが、何か危ないものはあったりしますか? 野生の動物とか」
「いや、ないよ。この辺りは木々で囲われているけれど、そう言った類はいない。あれは管理された人工林でね。大きな動物がいる報告は受けていない。虫や鳥くらいならいると思うけど」
なら安心して歩けるはずだ。キモ山さんに礼を言い、俺は玄関に向かって歩き出す。玄関まで、とキモ山さんも着いて来る。
「いってらっしゃい」
土間に座り、靴を履く。隅を見ると、俺よりも数センチ大きな靴が並べてあった。きっと、キモ山さんのものだろう。
「いってきます」
ひらひらと手を振るキモ山さんに会釈し、俺は玄関を出た。太陽が眩しい。まだ東方に傾いた太陽が容赦なく俺を照らす。そういえば、ここは俺の住む惑星ではないらしい。なら、あの太陽は俺の知るものではないのかも知れない。あちらが東、というのも正しいか分からない。
アスファルトで舗装された――様に見える――道を進む。ワシワシワシ、と蝉の鳴き声が微かにする。太陽の日差しこそ強いが、気温は高くなく、むしろ涼しく過ごしやすい。ああ、夏だから蝉が鳴いて太陽が照っている、というのも改めるべきなのだろうか。いや、これも一々反応、訂正していては疲れそうだ。俺はあくまで、俺の生きた場所での常識に従おう。
さらに歩くと人工林に近付いて来た。少し蝉の声が大きくなった気がする。しかし、木々を見ても蝉の姿はない。奥で鳴いているのだろうか。
よく見ると、木々はどれも同じ品種の様だ。針葉樹……、杉だろうか。背の高い木々は、枝がない高い幹と針の様な葉を持ち、壁の様にずらりと並んでいる。木々の間にはわずかな隙間があるが、入るのは難しそうだ。
木の壁に沿って歩くと、一分と経たない内に木々の切れ目が現れた。すっぽりと木が一本抜かれた様な隙間は、規則正しい木の壁を歪に台無しにしている。キモ山さん曰く、この林には危険な動物はいないらしい。ん? なら植物はいるのか? いやいや、キモ山さんがそんな情報を黙っているとは思えない。そういえば、この一帯からは蝉の鳴き声と葉擦れしか聞こえず、動物の声や気配はしない。その様子に何故か落ち着きを覚えている俺は、もしかすればハイキングでも趣味にしていたのだろうか。それか、ただこの穏やかな喧騒と静寂の狭間が好きなだけかも知れない。
入ろう。どうせ、俺にはやることがない。記憶が戻るに一縷の望みを掛け、俺は木々の隙間に身体を滑り込ませる。中は木々が数メートル刻みに規則正しく並んでいた。キモ山さんが管理されていると言っていたが、それにしても人工感が強い。歩けばすぐさま方向感覚を失いそうだ。ただ横断を目指すのは拙いかも知れない。ここは先ず、木々の壁に沿って少し歩いてみよう。
林の中は明るく、足元ははっきりと見え、それなりに遠くを見通せる。これも管理が故なのだろう。そういえば、外では少し聞こえていた程度の蝉の声が、はっきりと聞こえる様になっている。しかし、蝉の姿は見当たらない。蝉の姿はないが、その鳴き声はサラウンドに聞こえており、ともすれば無数のスピーカーでも仕込まれているんじゃないかと思わせる状況だ。何を目的にこんな林を作ったのだろうか。キモ山さんが『管理された』と言っていたから、彼以外の誰かが関与しているのだと思う。訊けば答えてくれるだろうか。
十分ほど北に歩くと……、見覚えのある景色だ。ここに侵入した際に通った隙間。いつの間に俺は方向転換したんだ? いや、おかしい。隙間まで走り、身体を滑り込ませる。すると、少し先に舗装された道が見える。そしてその道に沿って遠方には、ポツンと家が建っていた。これは、それなりの異常事態だろう。
異星らしくなって来たな、と思った。いや、異星という言葉に丸め込むにはファンタジーが過ぎる。もしかしたらこの林が円形で、ぐるりと内周を回ったのかも知れない。しかし、見る限り木の壁は果てしなく続いており、十分程度で歩き切れるものではない。直線に感じる程度に大きな円形……。きっとそれは、果てしない大きさだろう。
時空が歪んでいる。時間か空間か、どちらが歪んでいるのかは知らないが、何か超常的なことが起こっている。ふと空を見ると、太陽まだは東に傾いており、林へ侵入した時から時間の経過は感じない。なら歪んでいるのは空間かも知れないな。なら、林の中を歩き回るのは遭難の危険が?
「大丈夫だよ、そんなに複雑なものじゃない」
空を見て思案に没していると、肩を優しく叩かれた。聞き覚えがある。キモ山さんだ。
「隙間なんかあったかなぁ」
「見覚えないですか?」
「ないねえ。いや、どうせここは木が生えているだけだと思ってたんだけど」
「中、入ってしまいました」
「いや、危ないこともない、と思うし大丈夫だよ。いや、少し自信がなくなって来たかなぁ」
キモ山さんが、顎に手を添え言う。
「自信がなくなって来た?」
「ああ、ほら、実際隙間なんか出来てるし。勘だけど、君はここにとってなかなかイレギュラーな存在な気がして来ていてね」
「名前も思い出せない点でしょうか」
そうだね、とキモ山さんが頷く。きっと単純な話だ。ここへは俺以外も送られて来たことがあるのだろう。そして、その場合には名前くらいは覚えていた。もしかすると他のことも。変な俺がいる変な惑星の変な状況で、変なことが起こってもおかしくない。
「そもそもここ、非日常的だから。何か嫌な予感がして急いで来たんだよ」
ありがとうございます、と感謝を述べると、キモ山さんは顎を撫でたまま、気にしないで、と優しく言った。
「もしかしたら、君を危険に晒しちゃってたかも知れなかった。ごめんね」
「実際は何も起きていない……、と言うには不思議な経験をしましたが」
「ああ、この林は見た目よりも小さいんだ。君は円周を歩ききったんだよ」
簡単に言ってのけたキモ山さんは、木々の隙間を恨めしそうに眺めている。目が一つでも、意外と表情から感情が読み取れるものだ。しかし、キモ山さんの知らない隙間が急に現れたことに、何か意味はあるのだろうか。単純には、この様なことをしそうなのは……。
「林を管理している人って、キモ山さん以外にいますか?」
「ん? ああ、いるよ。彼かも知れないねぇ」
「この林の中央には何が?」
「少し大きめの木が一本あるくらいだけど……」
目的は分からないが、何者かがこの隙間を作ったとして、それがわざとならば、どうにも誘われている心持ちになる。もしも
「行ってみるかい?」
「はい。あの……」
「あはは、一緒に行くよ。不安だろう」
これは、少し恥ずかしい。不安を悟られてしまった。とはいえ、この男は俺に対しいつでも気遣いを向けてくれるのだろう。それを無碍にしないためにも、提案を受けることにする。
通れるかな、と呟きながらキモ山さんが隙間を通っていく。それを見届け、俺も身体を滑り込ませる。先ほどと同じ景色だ。木々が整然と並んだ不気味な光景。曼荼羅を想起させる様子に圧巻される。
「このまま真っ直ぐ向かおう。そうだ、手も繋いでおこう」
キモ山さんが差し伸べた手を握り、並んで歩く。手は大きく暖かい。歩幅を合わせてくれるキモ山さんの優しさに、もはや感心すらしている。
「帰ったら、何を食べようねぇ」
「俺、簡単な料理しか出来ないので……」
「いやいや、気にしないで。ああ、そういうちょっとしたことは覚えているのかな」
「ん、どうでしょうか……。料理をした記憶が思い出せない……」
「進んで思い出そうとすると無理なのかなぁ」
確かに、靴を使い慣れたものだと言う認識は出来ていた。ともすれば、ふとした拍子に名前も口走るかも知れない。
名前。自分の名前を思い出せない事実は、別段思考を巡らせることが出来ている、一見には健常に見える状況との差分を見て、この記憶喪失を些か途方のないものに思わせている。年齢、出身、その他に思い出の数々が抜け落ちた身体には、観測する範囲で、常識や規律といったものだけはインストールされている様だ。何か恣意を感じてしまう。うむ? いや、そもそも名前がないのかも知れない。ないものを思い出すことはできないだろう。いやいや、ならば、中途半端に海馬を満たす過去の情景はなんだ。
「そういえば昨日はお風呂に入ってないね。今日は入ろうか。……と、着いたよ」
整然と並んだ木々の途切れ。林の中央なのだろうこの場所は、円形の広場になっており、中央には比較的大きな針葉樹が生えている。いよいよこれは、曼荼羅だ。圧巻、と言えば大仰だが、周囲の杉よりも少し大きな幹と広がった葉を持つ大木は、何か意味を想像させるに十分な威厳を持っている。これは松だろうか。少しうねった幹と低い場所から生えた同じく歪んだ大枝がある。葉はより針に似た形状で、よく見れば無数の松笠がぶら下がっている。
「何か見覚えのないものはありますか?」
「うーん、まだ分からないな。見て回ろう」
キモ山さんとともに歩き出す。ふと足元を見ると、松笠が全く落ちていない。少し不自然だ。木になった松笠は、どれも種を飛ばしていないのだろうか。
「なるほど、趣味が悪いな」
キモ山さんが目の上――眉間?――を
「手汗、出て来たね」
キモ山さんがこちらを見て行った。手汗? 繋いでいる手か……。
「すみません、拭きます」
「気にしないで良いけど、大丈夫? 少し震えてるけど」
そう言われ、手足を見ると、確かに震えている。身震いを自覚したからか、少し吐き気が出て来た。寒気もする。明らかに、あの首吊り道具を見てからの変化だ。鼓動が速くなり、少し思考が鈍い。蝉の声がより一層強く聞こえ、頭が痛い。
「うーん」
「ちょっと、何を!」
キモ山さんは動かない。身体は脱力し、首締めに抵抗する素振りすらない。
「何を考えてるんですか!」
急いで駆け寄り、キモ山さんの身体を持ち上げようとする。しかし、非力な俺にはこの巨躯を支えることすら出来ない。
何かいい方法はないか。縄を切れば……、しかしそんな道具はない。噛み千切るには縄が太く難しい。枝を曲げるにもキモ山さんが吊り下がってびくともしていない。俺が台になって下から支えるにはキモ山さんの足と地面の間に隙間がなさすぎる。そもそも何故この男はこんなことをしたのか。この状況で何の意味もなく素っ頓狂な行動に出る男にはあまり見えない。
「その狼狽は、縄を見た不祥の延長ではなさそうだね」
後ろから声が聞こえる。振り向くと、顎に手を当てたキモ山さんが立っていた。視線を元に戻すと縄がただ揺れている。
「うーん、首吊りにトラウマがあるのかと思ったんだけど、そういう訳ではないのかな」
こちらへゆっくりと近付くと、キモ山さんは跪く俺に視線を合わせ、顔に手を添える。
「ごめんごめん、泣かせてしまった」
大きな手が目を優しく擦る。かなり切羽詰まっていた様だ。さっきよりも鼓動が速く、汗もかなり汗をかいている。しかしキモ山さんの言う通り、縄を見た時の不快感は失せていた。
「キモ山さん、実は俺が嫌いですか?」
「そんなことないよ。ごめんね、心の準備をさせちゃうと検証にならないと思って」
優しいのは疑っていないが、キモ山さんは共感性に乏しい人種なのかも知れない。
「いや、本当にごめんね。君があまり感情を見せないから、もっと冷徹に状況整理するかもって踏んだんだ。いや、失礼な予測だった。本当にごめん」
俺の頭を撫でながら、本当に失礼なことを言う。
「なんであんなことをしたのかは、なんとなく理解しました。他人の首吊りを、トラウマと言うよりはただ止めるべきものとして認識していたと思います。特にこれを引き金に、思い出したことはないです。ただ、新しいトラウマは出来そうです」
「本当に本当にごめん。もうこんなことはしないよ」
「それと、何が起こったのか教えて貰えますか?」
「……何がだい?」
「恍けるな」
俺の怒りを察して、キモ山さんはさらに謝罪を重ねつつ、
「縄の下を見てごらん」
と言った。言われた通り見ると、松笠が二つ落ちていた。一つ増えている? 一方は、先ほど目にしたものだろう。しかし、大枝は全く揺れていなかったはずだ。それに、一個だけが自然に落ちたとは考えにくい。
「僕の代わりに、あの松ぼっくりが吊られたんだよ」
代わりに?
「例えばそうだね。これを――」
キモ山さんは懐から小さなナイフを取り出す――何故そんなものを持っているんだ――と、
「適応力が高いね。でも残念、今回は分かりやすくするため――」
平手をこちらに差し出すと、手には深々と傷が付き、緑の体液が吐き出されている。キモ山さんの血は緑色なのか。ふーん。
「現実逃避かな?」
「もし俺が血液恐怖症だったらどうするんですか?」
「ははは、その時は見なかったことにするだけだよ」
何を言っているんだ、と眉を
「こういうこと」
「……あなたの手の傷と、この松笠の間に因果関係は?」
「あるね」
はあ、と溜め息が出る。どうやら見た目の通り、キモ山さんは俺の常識外の存在らしい。
「一つだけ約束して下さい」
「なんだい?」
「キモ山さんと俺が会った事実を、どこかへ飛ばさないで下さい」
一瞬驚いた顔をしたキモ山さんは、すぐに破顔して、
「約束するよ」
と言った。
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