気が付くと、俺は見知らぬ部屋のベッドで天井を見つめていた。柔らかい枕に、頭が深く沈む。ベッドは俺がもう一人寝ても余りある大きさで、独りだと些かの吝嗇りんしょくが刺激される。一方で、ふわふわとした布団に包まれることで、安心も得ていた。そのおかげか、このおかしな状況でも多少冷静だ。

 臥したまま首を動かし、周りを見渡す。天井に電灯はなく、部屋は窓明かりだけで照らされている。光は強く、茜色だ。恐らく日没時なのだろう。起きて日没とは、状況を理解できていないながら少し悋惜りんせきがある。自然と溜め息を吐いた俺は、ベッドから這い出る決意をした。

 這い出ようとすると、足が掛け布団に引っかかる。不躾にも靴を履いたままだ。急いで布団を剥ぎ、靴を脱ぐ。靴のまま布団に潜ったのか? 狂ったのだろうか? 家に土足で上がる文化もあると聞くが、寝床に外履きのまま入るのは流石にそうないだろう。ああ、もしこの部屋の主がいて、この状況を観測されたら都合が悪い。そう思い靴を見ると、泥一つ付いていなかった。布団にも付着はない。

 ほっと、胸を撫で下ろす。しかし、履き慣れた靴に汚れがないのは何故だ? 靴を履いたまま寝ていたのもそうだ。そもそも、俺はここに来る前に何をしていた? どうやってここへ来た? ……思い出せない。記憶喪失か。記憶喪失ならば、俺に出来ることは精々あがくことだろう。幸い、この異様な状況は暇を潰すに丁度良い。

 探索をしよう。俺は靴を脱ぎ、屋内を散策することにした。靴を手に持ち、木製扉のノブを引く。扉は抵抗なく開いた。戸を抜けると廊下が伸びており、部屋があと三つあるのが見える。

「一つ一つ見ていくか」

 俺は呟くと、一番近くの部屋の前に立ち、ゆっくりと扉を開ける。中には本の山があった。十冊ほどの本の塊が四、五、六。その横には大きめの机が一台に椅子が二脚。机の上に、栞が挟まれた本が置かれている。その他にめぼしいものは見当たらない。誰かの読みかけだろうか。しかし、この建物から人の気配は感じない。静寂で満たされており、正直不気味だ。仮にこの本の持ち主が近くにいたとして、それは味方か敵か。いや、敵という表現は大袈裟かも知れない。いやいや、もし俺をここに連れ込んだのならば、犯罪者の可能性もあるだろう。しかし、答えに辿り着くための材料は全くない。考えるだけ無駄か。

 栞が挟まれた本をよく見てみると、どうやら小説のようだ。タイトルは『仮面生者』、著者の表記はない。少し好奇心がくすぐられ、手に取りたくなったが、今は探索を優先しよう。勝手に読んで怒られても嫌だ。

「次だ」

 気を確かに持つため、言葉を吐き出す。そう、次だ。小説部屋を出て、その隣の部屋を見る。この部屋には扉がなく、白色の暖簾のれんが内外を仕切っている。潜り入ると、すぐに木製の箱が目に入る。中には様々な野菜が入れられていた。部屋の奥には大きめの黒い冷蔵庫があり、コンロが三つと、少し狭めの調理スペースがある。調理場なのだろう。寝室らしきに部屋に書斎――些か本の扱いが雑だが――、そして調理場がある。ここは誰かの家なのだろうか。

「腹は空いていないな」

 空腹を感じれば最悪、ここの食材を拝借して生き永らえよう。箱に入った野菜は綺麗なもので、傷一つなく、新鮮に見える。何なら、調理せずそのままでも美味しく食べられそうだ。家主に見付かればどうなるか分からないが、餓死は回避しなければならない。

 次、最後の部屋の前に立つ。ベッドの部屋や本の部屋と違い、扉に鍵穴がある。ドアノブを回そうとしたが、強い抵抗があった。回らない。扉を押してもびくともしない。どうやら、鍵がなければ開かないらしい。しかし、見知らぬ家で小さな鍵探しは些か無謀だ。それに、部屋を荒らしたところを見られたくはない。

「後は外か」

 廊下の突き当たりに、一際大きな扉がある。恐らく玄関だ。靴箱などはなく、土間に靴も置かれていない。そういえば、スリッパが置かれている様子がない。ともすれば、この家は外履きのまま上がる文化にあるのかもしれない。いやしかし、床が汚れている様子はない。大事をとって、戻る際には土間で靴を脱ごう。

 何もない土間に靴を置き、床に尻を付く。スラックス越しにも地面の冷たさが感じられた。そういえば、今は夏ではなかったか? 自分の格好を見直すと、半袖のワイシャツに、薄い生地のスラックス。冷房が効いている様子はないが、何故こんなにも快適なのか。

 いや、すぐに疑問で脳みそが満たされるのが俺の悪い癖だ。問題の本質を見失うな。熟考の対象を間違えるな。靴を履き、土間に立つ。大きな扉のノブに手をかけ捻ると、抵抗なく扉が開く。扉を押し開け外を見ると、やはり空は薄く橙色で、昼が終わろうとしていることが分かった。

 外に出ると、家の前に大きな道が一本横切っている。綺麗に舗装されたアスファルトの道だ。太陽の傾きに沿って道があることから、丁度東西に伸びる道なのだろう。しかし、道の先まで目を凝らしても電灯らしきものがない。太陽が沈み切れば、帰って来られないかも知れない。動くなら、急ごう。太陽の沈む方へ進んでみる。遠くに見える木々まで歩いてみるか。

 よく耳を凝らすと、微かに蝉の声が聞こえる。ワシワシワシ……。大合唱されると鬱陶しいことこの上ないが、こう微かに聴く分には心地よい鳴き声だ。そういえば、蝉は地域によって種が異なるらしい。いや、少しバカな物言いだった。種ごとに異なる生息域があることなど当たり前だ。何、蝉の鳴き声など『うるさい』としか認識していなかっただけに、遠出をして聞く蝉の声に地元との違いなど感じていなかったのだ。これは、ただ俺に風情を解する心が乏しいだけの話だが、とはいえ、自分の常識が少し歪まされた心持ちがして、蝉の鳴き声と聞き想起するものが人により変わり得ることに感心しつつも、少し気味の悪さを感じたのだった。

 ふと後ろを見ると、少し遠くに先ほど出た家が見える。家は一見は一階建てで、直方体のシンプルな構造だ。豆腐小屋、と揶揄されそうな外観で、実際、白色の壁が太陽光をよく反射している。遠く木々に囲まれた空間にポツンと豆腐が建っている様子は、大変奇妙と言わざるを得ない。

 十分ほど歩いただろうか。遠くに感じた木々だったが、歩けば思ったよりもすぐに辿り着けた。ずらりと並んだ大きな針葉樹に、低木が群がっている。低木とは言え俺の身長よりは高く、まるでバリケードの様に茂っていた。人がここから出ることを拒む様に。

 木々に沿って歩くと、低木の切れ目が目に入った。針葉樹の間に、人一人が通れそうな穴が空いている。少し悩む。獣道にも見えるこの痕跡を進むべきか。しかし、森に入って暗くなれば、そして動物と遭遇でもしてしまえば、命の保障はないかも知れない。

 一旦諦め、家に帰ることにする。ああ、俺は小心者だな。そう思ったけれども、懸命な判断であるとも思う。木々沿いに少し戻り、舗装された道を踏み、帰路に着く。帰ったら何か食べようか。しかし、不思議と腹は全く減っていない。寝起きからまま時間が経っていると言うのに。

 また十分ほど歩くと家に着いた。空は先ほどよりも暗く、足元を確認することが少し困難になっていた。玄関の扉を開け、家に入る。

「や、おかえり」

 男の声がした。優しい声だった。

「え、あ」

「ああ、驚かせたかな、ごめんね」

 見上げると、男がにっこりと笑っている。優しい表情、だと思う。思う、というのも、男の顔面には大きな目が一つ。生憎、一つ目の人間になど会ったことがなく、その表情を読み取るのが難しい。男は大きな目を細め、口元には笑みを蓄えている。少なくとも、敵意の類は感じない。

「ああ、この見た目に驚いているかな。ごめんね、生まれつきこんなでね」

「あ、いや、すみま、せん」

「あはは! 謝らないでいいよ。見慣れないんだろう? 動揺も当然さ」

 男はそう言うと、手招きをして廊下をゆっくりと歩いていく。男の足に靴がないことを確認して、急いで靴を脱ぎ、男に着いていく。俺よりも十センチほど高い。そこそこの大男と言って差し支えない。緑の肌に、大きな三角の耳が二つ。上下白いスウェットで、少しだらしない着こなしだ。よく見ると、手に本がある。『仮面生者』だ。

 男に従い着いた場所は、本が積まれた部屋だった。やはり、テーブルに置かれた本がない。手に持っているのがそれだろう。この男が家主だろうか。男は本を机に置き、椅子に腰掛ける。そしてもう一方の椅子に手を向けながら、

「とりあえず、座って」

 と、優しく言った。逆らう理由はない。と言うか、逆らって何をされるか分かったものではないので、俺は大人しく指された椅子に座った。

「先ずは自己紹介をしよう。僕の名前はね、キモ山だよ」

 は? 何とか声に出すのを我慢できたものの、口をぽかんと広げた間抜け面をキモ山と名乗る男に向けてしまう。

「ははは! ごめんね、名前まで変でしょ。いろいろと事情はあるんだけど、キモ山なんだ。よろしくね」

「キモ山、さん。本名、ですか?」

「ははは、そうだよね。まあ、あだ名だよ。お気に入りの。皆に、キモ山さんって呼ばれてるんだ」

 皆とは誰だ、と疑問が生じたが、今はいい。キモ山、のキモとは何だ。肝か? それともキモい、からか?

「キモいからだねぇ。ははは! まあ、今は悪意で呼ぶ人もいないよ。気にせず、キモ山って呼んで欲しいな」

 当たり前の様に読心したキモ山さんは、楽しそうに笑う。何がそんなに楽しいのか。敵意がなさそう、どころか味方にも思えるその様子を目の当たりにしながらも、不気味さが信用を掻き消してしまう。ともすれば、俺はかなり失礼な奴だ。

「そんなことはないさ。じゃ、君が落ち着いて自己紹介ができる様に、質問にでも答えようかな」

 優しい――多分――笑みを浮かべたキモ山さんは、質問を促す様にこちらに手を向ける。大きくて綺麗な手だ。

「ここは、どこなんです、か?」

「うーん、地名を答えるのは難しいねえ。単純には、君の生きた都市、国、惑星とは違うどこかだよ」

 うん? 違う惑星だとでもいうのか。唐突でコズミックな話に、思わず俺の額に皺が寄る。いや確かに、実際に、俺は目の前にいる様な緑で一つ目の男を観測した覚えがない。正確には、物語でしか見たことがない。俺が知る範囲では、神話の巨人が有名か。しかし、キモ山さんは巨人というほどの背丈ではない。それどころか、肌と目を除けば特徴のない男の見目と振る舞いは、少々不気味ではあるものの、どこにでもいる青年といったものだ。

「そうだねえ、僕はどこにでもいる普通の男だと思うよ。精々、ここの持ち主ってくらいが取り柄だね。いいところでしょ? 寛ぐにはなかなかいい場所なんだ」

 やはり当然の様な読心だ。

「表情を全く動かさずに脳を振り回す子だね。器用だと思うよ」

 褒めか貶しか……。いや、キモ山さんから邪気は感じない。褒めたか、ただ俺の様子を言い表しただけだろう。

 一先ず、俺がどこにいるのか詳細を聞く意味はなくなった。何せ、唯一頼れそうな男が異星を指したのだ。信じるべきか判断に悩むが、目の当たりにしている存在がそこそこに異星的なのだ。一旦、ここは飲み込むべきだろう。次に尋ねるべきは、

「俺は、何故ここに?」

「ほう、覚えていないのかい? それは予想外だね」

「気が付くと、ベッドで寝ていました。それまで何をしていたか、何も思い出せない状況です」

 少しキモ山さんに慣れてきた様だ。俺から訥弁が薄れている。俺は靴の件を伏せ、キモ山さんに現状を説明した。と、内心で考えている時点で筒抜けなのだろうか。キモ山さんは俺の話を、顎に手を当てながら聴いている。目を少し細め、何か考えている様子だ。

「これは、僕の知る状況ではないなぁ。むう。なら、君の名前は?」

 ああ、そう言えば一方的な自己紹介で終わっていた。キモ山さんにも少し見慣れ、落ち着いたと言える状況だ。改めて名乗ろう。俺の名前は……。ん? 俺の名前は……。

 ふむ、名前まで思い出せないとは。額に汗が流れるのを感じる。少し吐き気もある。名前、簡単なことだ、この十……数年間、使ってきた名前……、十数年? 俺は何歳だ? 自分の手を見る。五本の指が二組。足も二本。白いワイシャツに灰色のスラックス。確か、靴は黒い革靴だった。顔を触る。恐らく、目が二つ。耳も二つ。口は一つ。髪がある。ヒトか? キモ山さんの身長が百八十センチ程度に見えるから、俺は恐らく百七十センチほどだ。なら、人間の成人か? いや、この服装が制服だとしたら、高校生くらいかも知れない。

 目一杯脳みそを振り回すが、弱く暴れる心臓が静まる気配はない。……俺は誰だ?

「君は凄いね。僕ならそんなに頭を回せないな」

 気付くとキモ山さんが傍に立ち、俺の背中を摩っている。

「なるほど、なるほどね。大丈夫、大丈夫だよ。少し休もう」

 キモ山さんが俺の頭を優しく撫でながら言う。確かに、訳の分からない状況で、少し疲れているのかも知れない。思うに、俺は自分の消耗に鈍感だ。間抜けな話だが、身体に不調が現れなければ自覚できないのだろう。

「おいで、ベッドに行こう」

 キモ山さんが俺を抱き抱える。あまり筋肉がある様には見えないが、男一人を軽々と持ち上げる力はあるらしい。あまり、機嫌を損ねない様にしなければ。細腕の俺など、一撃で伸されてしまうに違いない。

「しないよ。今はそんなこと良いから、頭を休めなさい」

 阿呆な思考をしている内に、キモ山さんは俺をベッドまで運び、寝かせる。相変わらずベッドはふかふかで、安心感がある。

「キモ山さんは、どうするんですか?」

「どうして欲しい?」

「少しの間、ここにいて欲しいです」

 なるほど、と少し苦笑したキモ山さんは俺の隣に入り込み、布団をかけてくれる。腕を俺の頭の下に敷き、もう一方の手で頭を撫でてくる。まさか、腕枕までされてしまうとは思わなかった。きっと、彼なりの安心のさせ方なのだろう。実際、身体が大きいからか、包まれる様な感覚で安心する。

「さぁ、少し休もうね。力になれるか分からないけれど、僕もいるから。大丈夫、思い出せるさ」

 少し低い、優しい声が、安心を強めてくれる。俺は目を瞑り、眠りに向け思考を薄める。眠るのは少し苦手だ。忙しなく動き回る脳を沈めるのが難しいのだ。しかしキモ山さんのおかげか、単なる疲労か、思考が容易く薄れていく。

「おやすみ」

 途端、俺は意識を失った。








  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る